図書館を出てすぐ左側の、狭い道路沿いのわきにある小さなみすぼらしいバス停の横。
そこには、おおきな金木犀が1本植えてある。
金木犀。
秋になりだいたい9月のおわりから10月のはじめごろに橙黄色で十字形のちいさな花が木の全体に咲き乱れ、ちょうどそれが今の時期、花をつけ見ごろを迎えていた。かぐわしく濃厚な芳香を漂わせるこの木の花が咲くのを、シンジは毎年楽しみにしていた。
木の周辺の匂いは、花の香りがすべて滲み溶けたかのように甘ったるい。
(金木犀の匂いってすごいな。あんなにちっちゃい花なのに)
秋を感じさせる金木犀の香りに心を和ませつつ、シンジは本を読みながらほっと溜息を吐く。
そのとき、東の空が一瞬だけぱっと明るく光ったのが目に入る。
案の定それは稲光で、何秒か経って遠くのほうの空からゴロゴロと雷の堕ちる音が響いた。
次の刹那、目の前で透きとおった水の雫がまばらにぽつぽつと落ちてきたかと思うと、鉛色の曇空から無数の雨粒がまるでシャワーのごとくさあさあと地上に降りそそぎだした。途切れることのない、なだらかな糸をつむぎだすような細やかさとなって。
そうしてたちまち屋外のすべてのものが湿り気を帯び、うすく土埃をあげて降りそそぐ雨はすみやかに地面を覆い広がり、あたり一面にすき間なく浸透していく。
「傘、持ってきてないや…」
どんよりとした厚い雲におおわれた空が今にも落下してきそうだと思いつつ、シンジは力なく呟く。
狭く薄暗いバス停のなかは、雨水とむせかえるような金木犀の匂いとが混ざりあい、それがいっぱいにたちこめている。
図書館を出たあと最寄りのバス停で帰りのバスの時刻表を確認すると、まだ20分も待たなくてはいけないのを知って、きちんと確認しておけばよかったと肩を落としたのが15分前。バス停に到着したとき、余裕を持って行動できたにせよもう少し図書館に長居すればよかったと後悔したが、今となってはこの雨のなか図書館まで引き返す選択肢は毛頭なかった。
そのあいだあまり広くもなく清潔ともいえない閑散とした無人のバス停のなかで、ひんやりとしたクリーム色のプラスチックの壁にもたれかかりながらシンジは先ほど図書館で借りた星の王子さまのつづきをひたすら読んでいた。
ひと気のないバス停のなかはとてもしめやかな雰囲気で。
ときどき、道路を車が横切るくらいでそのほかはとくにこれといった騒音も聞こえない。
耳に残るのは雨の音、水の音ばかり。
シンジは本をぱたんと閉じ、鞄のなかに仕舞う。
なんとなくこれ以上、文章を目で追うのに集中できないような気がした。
仄暗い色に染まったバス停の外の景色を見たくなくて俯けば、途端にやるせない気持ちがこみあげてくる。
本の世界から思考を戻すと同時に襲ってくる現実感は、シンジの心のなかにじわじわとほのかな暗い影を落としていった。
―…さびしい。
あのひとの顔が見たい。
それをいったん感じてしまえばもう、どうしたって孤独から意識を逸らせない。
このさびしさの形を、つらつらと縁取る原因そのもの。
彼という存在から。
「最低だ、ぼく…」
―…彼をひとりにしてやった。
ひとりぼっちにしてやった。
シンジにとって、それはある一種の歓喜になるはずだった。
なのにいざ実行してしまったら、残ったのは“わびしさ”だけだった。
(会うのがこわいよ…)
ひどい台詞を言ってしまったから。
感情のコントロールがきかず、勢いで口から飛びでた拒絶の言葉にいまさら後悔しているだなんて。
意地と見栄を張ったって結局いいことなんて何ひとつなかった。
都合のいい言いわけをしたってそんなものは彼に通じないことくらい、目に見えていたというのに。
そのうえ避けるように彼のもとから去ったのだから、つまらない口論の原因をつくったのは自分のほうだ。
責められて当然だ、とシンジは思う。いっそ、そうしてもらえたらいいのに…、と。
嘘をつく、それ自体が相手だけでなく自分自身さえも傷つける行為だと知っていて―――
「加持さんのこと、傷つけちゃった…」
あのあと、冷静になって咄嗟に謝るべきだったんだろう。
でも、シンジにはそれができなかった。
古く錆びたバス停の屋根の上に降りそそいだ雨が濡れたアスファルトにぽとぽと落ちてゆくのを眺めながら―…
それがまるで小川のように静かな流れで排水溝まで落ちてゆくのを、シンジは目で追いかける。
この雨水が流れつく場所を想像しながら。
(どこへ向かおうとしているの…?)
気分が高ぶっていたせいで自分自身のことで精一杯になっていたとしても。
どうして、あんなに切羽詰まってはっきりと拒絶の意味の言葉を口にしてしまったんだろうか。
『加持さんなんてきらい!』
どうして、本当の想いを―…素直で偽りのない気持ちを言葉に託すことができないのだろう。
嫌いだなんて、ましてや放っておかれたいだなんて一度も思ったことはない。
それなのに突きはなすような感情的な態度を取ってしまっただなんて、どうかしている。
そして、続けてこうも言ってしまった。
『加持さんだって気づいてるんでしょ…?こんなこと…ほんとうはしちゃいけないんだ…!僕たち、今はすごく幸せだけど…もうこれ以上、前に進むことなんてできないんですよ…!』
どんなに好きあっていても、何も生まれない。この恋からは。
行き先なんて、目指す場所なんてどこにもない。
ここで止まっている。行き詰まってしまっている。
結婚も妊娠も不可能なだけでなく、もしもこの秘密の関係を知られるようなことがあれば、世間の偏見だってつき纏う。
一歩内側に目を向ければそこにはしがらみだらけの狭い世界が待っている。社会通念で埋め尽くされた、窮屈で不自由な世界。
少数派の者の意見は異端だと敵意を持たれ蔑視され、バッシングを受ける世界。
(加持さんが言ってくれたあの言葉を、信じるのがこわかったんだ)
変わらない愛なんて存在しないとしても、君を抱きしめていたい、と。
『いけないことなんて…そんなの最初っから分かってる。でも、どうしても気持ちに嘘をつけないんだ…シンジ君をあいしてる…。俺は、シンジ君の隣にいられるなら…前になんて進めなくたっていい』
ふたりきりの空間で告げられた言葉。
それは常識を逸した、なにかとてもおそろしいもののような響きで耳の奥に入りこんできた。
なにかがひどく間違っていて滑稽だった。
―…このひとは何を言ってるんだろう。気が狂ってるんじゃないか。
自分が頭のなかで理想的な展開を創りだしているだけなんじゃないか、とさえ思った。
真剣そのものだった加持の腕を振り払い、あの心地いい部屋から逃げだした。
まともじゃない、とさえ思って震撼するも、自分だって彼と同じだと気づいたのは、あの部屋を飛び出したあとだった。
(僕が…加持さんをあんなふうに変えてしまったの…?きれいごとだけじゃ生きられないって、加持さんのほうがよく知ってるはずなのに)
…恋、だなんて。
そんなもの自分にはまだまだ遠い世界だと思っていた。彼に出会うまでは。
誰かを好きになるのがこんなにもくるしい痛みを伴うなんて知らずにいた。
彼から貰った感情はすべて本当の意味で自分にとって大切なものになってしまった。
「ほんとうは加持さんの人生なんかに、関わっちゃいけなかったのに…」
それはいけないことだとお互い分かっていて、ここまでやってきてしまった。
自分たちの秘密の関係。その陰にはいつも、すこしの背徳感がつき纏う。きっとこれから先も、ずっと。
―…だけど、やっぱり―――
「それでも一緒にいたいだなんて。わがままだ…っ」
口にすると、かなしくて目が熱くなる。
自分よりも彼にふさわしいひと―…この世界中のどこかで、彼のことを待っているひとはいるんだろうか。
今までゆっくりと積みあげてきたもの、あたたかくてやさしくて切なくなるような日々もすべて…いずれそこなってしまうのなら。
夢が壊れて傷つく前に、まだ現実に縋りついていられるうちに、別れ話を切り出したほうがいいかもしれない。ふたりのためにも。
でも、それなら自分の想いは…彼の想いは。
いったいどこへいってしまうんだろう。
「…本気で言ってるのか、それ」
突然そうたずねてきた聞き慣れた声色に、思わず体が反応してビクンと震える。
何がおきているのか分からず、心臓が跳ね上がりそうになるのをシンジは必死にこらえておそるおそる顔を上げてみると―…
ざあざあ降りのなか全身ずぶ濡れになったひとりの男が、大きく息をきらしながらこちらに近づいてくる。
雨に濡れて歩み寄ってくる男はいま、一番会いたくて、会いたくない相手。
「シンジ君と一緒いると俺が幸せになれないだとか考えてるんだろ?…勝手に決めつけるのはよせ」
加持は片手に透明なビニール傘を持っているのにもかかわらず、差していないのにシンジは驚く。
冷ややかな視線で見下ろされてシンジは泣きそうになりながら、内心信じられないような思いだった。
(まさかあれから、僕がマンションを飛び出してから今までずっと、外を走って捜しまわっていたの?このどしゃぶりの雨のなか、傘を差すのも忘れるくらい…)
なんでここにいるの、と咄嗟の言葉も言えずにいた。
最悪な展開になるかもしれないという予感が、胸のなかをぐるぐると渦巻く。
「せめて行き先ぐらい教えとけよ。まぁ、最終的に図書館にいるような気がして走ってきたけど、ここにいてくれてよかった。さすがにこんなみっともない恰好じゃ館内に入りにくいからな。…それより、さっきの台詞」
そう言いかけると、加持はいったん言葉を切ってシンジのすぐ前まで歩みを進め、足をとめた。
「関わっちゃいけなかったって、別れたほうがいいって…本気でそう思ってんのか」
釘を刺さすかのように放たれたひとことに、全身の動きを封じられているような感覚に陥り、シンジはぎくりと体を強張らせる。
加持は至って平静を装っているようでも、シンジはその微妙な声色の変化に気づかないわけにはいかなかった。
(そんな冷たい目で見ないで…やめて、くるしいよ…っ)
道路の傍らのくぼみにできた水溜まりに重たい空の色が反射しているのを目にし、シンジはたとえようのない不安に駆られる。
そして本能的に悟った―…自分はいま、この男の心の領域に閉じこめられてしまっている。
恋をしたことで彼の心のなかのずっとずっと奥の部屋に閉じ込められて、そこだけが世界でもっとも安全で開放的で自由で素晴らしい場所なのだと信じきってしまっている―――まるで魂の囚われた監獄だった。
シンジの苦い感情に追い打ちをかけるように、加持は濡れた指でズボンのポケットをまさぐり煙草の箱からその中の1本を取り出し、咥えた。
それで火をつけようとするも、湿気と雨水のせいでなかなかライターがつかないようだった。
自分の目の前で平気で煙草を喫おうとする加持の行動は、相当イライラしているときにだけ見せる姿だと―…シンジは知っているせいもあり、ますます咽喉が詰まってなにもこたえられなかった。
やがて加持は火がつかないのを理由に諦めたのか、小さく舌打ちしたあと煙草を箱に仕舞い、再びズボンのポケットに押し戻す。
「いつまでこんなところにいるつもりだ?」
「バスが、まだ…」
「歩いて帰ればいいだろ。ふたりで」
「だって…遠いですよ、ここからじゃ」
「…てこでも動かないつもりかよ?」
頭の上から降ってくる、やや不機嫌そうな声。
「はやく帰るぞ。ほら、」
そうして痺れを切らしたらしい加持は強制的にシンジをバス停の外まで連れ出そうとした。
シンジは首を横に振り、怖がって後ずさる。加持は一瞬顔を歪めるが、逃がすまいとしてシンジの腕をがしりと掴む。
「…っ」
その拍子に、シンジは我慢していた涙が目からすうっと零れ落ちるのを感じる。
溜まっていた感情の波が一気に外側に溢れだし、ぬるい涙が冷たい雨に混じり頬を濡らして流れてゆく。
「ぅ、かじ…さん、」
―…ごめんなさい。
ほんとうにごめんなさい、ごめんなさい。
ぼく、ただ加持さんの気が引きたかっただけ。
見えすいた嘘をついてしまったのも、加持さんがどう反応してくれのるか興味本位で―…
加持さんにならきっとゆるされるって…大人のひとだからたいして真に受けないだろうって、どうしてそんなバカなことを考えちゃったのか…ぼく、どうかしてた。
大人だからって、みんなつよい心を持ってるわけじゃないのに。加持さんにも弱さはたくさんあるのに。
もうそれしか言えない気がした。
涙に声を詰まらせながら一気にあふれるほんとうの想いのひとつひとつ。
ほかにうまく謝る方法なんてないのなら、ただこう云うしかない。
「加持さん…っぼく、きらいだなんて思ってないのに…。ごめんなさい…、ごめんなさい……っ!」
罪悪感のせいで加持の目をまともに直視できなくなったシンジはしばらく俯く。
それでも頬を伝う涙は隠せずにいた。
(きちんと向き合おうともせず逃げだしたんだ…)
それに対してここまで追ってきてくれた加持の心の寛容さに、無思慮な行為だったと―…いやというほど思い知らされる。
自分本意なふるまいをして、子供じみていると。自分はまだまだ未熟で幼く、人生のことを何も知らなさすぎるのだ、と…。
圧倒的な経験値の差はどうしようもなく、ときどき、こんなふうにシンジを落胆させる。
年上の彼を心のどこかで羨ましく思っていたのかもしれない。
精いっぱい背伸びしようとしても埋まらない距離がもどかしくて、近づきたいのに―…だからといって、大人にもなりきれない。
「加持さん…どうして僕なんかを好きになったの…?」
―…なんで僕を選んでくれたんですか。どうしてこんな僕なんかを?
そう言ってシンジが顔を上げた瞬間。
掴まれていた腕の力がしだいに緩み―――身体を引き寄せられ、きつく抱きすくめられてしまう。
「やっ…」
加持の髪から垂れた雨の雫がぽとりぽとりと頭の上に落ちてくる。
「きらいだなんて嘘、信じてなかったさ。…それでも、シンジ君から言われるのはつらかったよ」
「だめ、加持さん…っ…はなして、」
「…シンジ君を好きになった理由なんて、たくさんありすぎて…すべてを言葉にするのはむずかしいんだ。わからないか?」
「………。」
「じゃあ、逆に訊くけど…シンジ君は俺を好きになった理由をひとつ残らず、言葉に変えて表現できる?」
「…それは、ぼくも…。むずかしいです…」
「だろ?だから俺から逃げるな…もう怒ってないから」
「でもっ」
「いいから、最後まで訊けって…!」
濡れたシャツからほのかに香るのは、煙草の残り香と雨水の混じった匂い。
胸が高鳴った。加持の体温と、そして背中に回されるつめたい指先に。
「俺は、けっして強い人間なんかじゃない」
静かな声で囁かれ、シンジははっとなる。
こう見えて意外とナイーブな一面もある彼は―――きっと自分のいないあいだ、とてもさびしがっていた―…。
だから、今朝だってそうだった。あの表情。
腕を振り切ったときも―…心からかなしそうな顔をして、彼の目が訴えていた。
いかないでくれ、と。
(僕は…何もわかってなかった。そんなシンプルなことさえ思い出せないほど思い詰めていて、ちゃんと見てなかっただけなんだ、加持さんのこと…。いま、このひとの弱さを包みこんであげられるのは…僕だけなのに)
ほんとうはうれしかったのに。
その感情を無理に心の奥に閉じこめて見ないフリをしていた。
認めてしまったら最後、何か別のものになってしまうような気がして。
「それと、ごめん…俺もさっきの態度、悪かったよ。だから…仲直りしたい」
「なか…なおり…?」
「シンジ君が出て行ってから…もし帰ってこなかったらどうしようって、焦った。もう愛想尽かされたんじゃないかって…こわかった。こんなの、はじめてだ…」
はじめてだ、と。
そうした弱々しい口調の裏側に隠れる想いを感じ、シンジは身体の奥から幸せがじんわりと湧き出てくる。
加持の存在が、急に頼りなく見えてしまう。
なのにもうそれだけで、不安とかなしみがやわらぐ。
「…さびしかった。シンジ君がいないと」
打ち明けてくれた加持の想いに―…。
これが彼の、飾らない本来の姿のような気がしてならなかった。
それを自分だけに見せてくれているのだと、自惚れてもいいのだろうかと、シンジはふたたび胸が締めつけられる。
「…よわい俺はきらい…?」
「ううん、ぼく…加持さんに甘えられると、うれしい…」
ふたり一緒に抱き合って、はてしなく降りそそぐつめたい雨にさらされながら。
ずっとこのままこうしていられたらいいのに、とシンジは思う。
…加持さんが好き。すき、すき、すき…こんなにもだいすき。
このひとにぼくのぜんぶをあげる。
このひとのためにいきたい。
このひとのためにしにたい。
すこしくらい傷ついたってかまわない。
こころに灯がともったような、ときめき。
与えることのうれしさ。まごころ。一体感。無償のしあわせ。
ただ、せつないほどそれだけを感じていたくて。
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