第1話 カモミールの恋
誰にも言わない。この恋は、ふたりだけの秘密だから。
暇つぶしに恰好の場所。
それで真っ先にシンジが頭に思い浮かべたのが、隣町にある古い図書館だ。マンションの部屋を出てからやみくもに近所を歩きまわったあと、シンジは図書館へ向かっていた。ごく一般的な、どこにでもある建築の開架式図書館に。
これから何時間かは、そこで読書に耽って時間を潰せば大丈夫だろうとシンジは考える。図書館へとつづく歩道を歩きながら。
ひとりで外出するとなれば、無論、交通手段や移動時間の関係で行き先はかなり限られてくる。
なるべくお金は使いたくない。だからといって人口密度が高くやたら歩行者でにぎわう街道やアミューズメント施設をあてもなくぶらぶらと歩くのも億劫で。
混雑した場所―…いわゆる、多くの人々が行き来する、いかにも人の暮らしの忙しなさを体感できるような場所に長時間いるのはすこし苦手だった。第一、そういうところはひととおりのものは揃ってはいるけれど、気が向かないときに行ったって人疲れするだけだ、とシンジは思う。
家以外で、誰にも左右されずに落ちつける、自分が自分でいられるのに最適な空間。
そんな居場所を求めるとき。決まってシンジが向かう先は図書館だった。
うるさくもないし、料金も取られずにすむ。それでいて退屈しない公共文化施設。
図書館はその条件にぴったりと当てはまる快適な空間だった。もっとも、単なる暇つぶしというよりわざわざそこを選んで赴くのだから「暇つぶし」という容易な言葉で片づけてしまうよりは。
お気に入りの場所のひとつでもあると、そう言ったほうが正しいかもしれない。
自分はここにいるのが好きなのだ、と。
しかし、今のシンジには―…
それさえもむしろ都合のいい口実にしか思えず、どこかみじめな、煢然たる気分になってしまう。
(だいじょうぶって…、なにを根拠にして僕はそんなことを思ってるんだ?時間を潰した、そのあとのことなんて考えてもいないじゃないか…)
別に、誰にも会いたくないわけじゃない。
友人に会うには今の自分のテンションは重すぎるし、逆に何かよからぬことでもあったのかと相手に心配され気遣われるのがオチだろう。
たとえ友人に会ってこの憂鬱の理由を聞かれたとしても誰かに気軽に相談できるような話でもないのがことさら面倒だ。
いつだったかケンスケに、自分の性格についてけらけらと笑われながら「碇ってさ、なるべく感情隠してるつもりだろうけどけっこう表情豊かだよな」なんてありがたくもない助言をされた記憶もあるのだし、なおさら友人のところへ行くべきではない気がした。
とにかく最優先したかったのは。
「彼に会わないほうがいい」という、マイナスな感情。
―…ようするに自分はただ、逃げているだけ。
彼の気配のある場所、あの部屋に…帰りたくないだけ。
その逃げ道に居心地のいい図書館を選んで辿りついただけなのだと、冷静になってみればそんなもの分かりきったことだった。
(訊かれてもこっちは何も答えられないんだったら、会わないほうがいいんだ)
シンジはそうした錯綜とした思いを抱えたまま図書館の中央玄関に到着した。
自動ドアをくぐりぬけ、すり減った黒い石の階段を何段か上がり、左側の踊り場に設置されているエレベーターの扉の正面で立ちどまる。
なんとか気をとりなおそうと、2階へ行くためにエレベーターの扉の横にある一般人用の上下三角ボタンを押す。
無機質なエレベーターの扉は10秒も経たないうちに開いた。中には誰も乗っていない。
…本来なら。
今日この場所に、ふたりで来るはずだった。
ふたりとも、読書が共通の趣味だったから。
お互いどんなにジャンルが違っていたとしても、読み終わった本の感想を聞きあうのがたのしみでもあって。
(僕はここが好きだから、たとえひとりきりでもたのしい。でも、今日は…)
“彼がいてくれたら、もっと…”
そんなふうに心なしか物足りなさを感じるようになってしまったのは、いつからだろう。
果たせなかった約束から生まれた後悔の念がますます積もり積もって、シンジは震える唇をよわく噛みしめる。
未練がましくてばかみたいだ、と小声で呟きながら。
*******
多くの本に囲まれるたび、シンジは自分がいかに無知で小さな存在なのか、思い知らされる。
手にとって気に入った本の中にはかならず、自分の欠けた心に深く響きわたるような言葉がたくさん綴ってある。
図書館は感性と知性の宝庫だった。
好奇心を満たしてくれる文章に出会い、そして本から得る学びを通して人が生みだす知識と感性に触れる時間は、心地よかった。
でもそれ以上に、物語のなかの登場人物に感情移入したり、繰り広げられるさまざまな世界観を自分だけの解釈で味わうのはもっと好きだった。
目に見えない相手に励まされているかのような不思議な感動を、脳内で心置きなく味わえる愉しさ。
本を読むことによって、シンジは誰かと繋がっていられる気がした―…もしくは、ただそう信じて縋っていたかったのかもしれない。
たとえそれが思いこみでも、ひとりよがりだったとしても。
こんな気持ちになってるのはきっと自分だけじゃないんだ、と。
読書に集中していたシンジは、壁の掛け時計に目を向ける。ちょうど時計の指針が午後5時を指そうとしていた。
閉館時間が近づいてきている。そろそろ借りる本を選んでおこうと思い、シンジは椅子から立ちあがると、読みかけの本をもとあった場所に戻した。
人がまばらな館内は、静寂な空気と収納されている本の匂いで満ちている。さまざまな本の放つ、独特な紙の匂い。
本がびっしりと敷き詰められている天井にも届きそうな大きな書架と書架のあいだの狭い通路をいくつも通りぬけ、どの本にしようかと考えながらシンジはそこらじゅうをじっくりと見まわす。
そうしているうち、偶然目に入った本の前でぴたりと足をとめた。
(あ、これって)
それは世界的にも有名なタイトルで、表題は[Le Petit Prince]と書かれている。
「星の王子さま…」
星の王子さま。フランスの本で、世界中で翻訳されている名作だ。
以前にも別の出版社から発行されたものをシンジは何冊か読んだことがあったが、今日久々に表紙を見たものだからなんとなく気になってしまい、書棚からその一冊を抜き取った。
一見童話のような形をとってはいるものの、まるで言葉のひとつひとつがきらきらと輝いているかのように―…詩的な台詞やストーリーがとても美しかったのと、パイロットの男と王子さまの絆にしんみりさせられたのをシンジはよく覚えている。
濃紺色で高級感のある装丁。表紙全体にはちいさな星々の絵が散りばめてあり、その中心にいるのが、凛としたたたずまいの愛らしい王子さまだ。
シンジは惹かれるように表紙を開いて頁をぱらぱらとめくる。今日は絶対にこれを借りよう、と決めた。
いくつかの可愛いイラストが挿入されているのも特徴だ。
大蛇ボアに飲まれたゾウ、ヒツジの入った木箱、バオバブ、王子さまの星に咲く美しい一輪のバラ、地理学者、常に時間に追われる点灯人、キツネ―――
(たしか挿絵も作者自身が描いてるんだっけ。文章も、すごくきれいでせつなくて…)
そして本をぱたりと閉じ、シンジは貸出カウンターへと向かった。
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