2







 クリスマスイブの朝、僕は泣いていた。

過去の思い出に浸っていた僕は、大型トラックが通りすぎてゆく騒音で、はっとわれにかえる。
しんしんと雪が降るさむいなか、どうしてもつらくなって、横断歩道の手前でぴたりと立ちどまりついにしゃがみこんでしまう。ひとりきりで、膝を抱えながら。

 誰もが僕の存在など、気にもとめない。

 せっかくの日曜日でもスーツをきちっと着こんで神経質そうに腕時計を気にしながら歩くサラリーマンやキャリアウーマン、冬になると定番のフライドチキンの赤い箱を嬉しそうに抱えている老婆、これから遊びに行くであろう親子連れ、幸せそうに手をつなぐカップル―――僕の知らないさまざまな人生を歩んでいる人たち。たくさんの人が、自分の横を通りすぎていく。
それよか何事だろうかと不審がって近寄りたがらない、といったほうがいいかもしれない。そりゃそうだよな、と僕はしんみり思う。
そもそも誰だってこんな栄えある日に、自分のペースを崩されたくはないはずだ。
幸せな気分を、見知らぬ僕だけのためにぶち壊されたくないに決まってる。

 12月がくるたび、赤と緑と金色が街全体をきらめかせ、人々はその雰囲気に呑みこまれてゆく。
キリスト教が普及してないこの日本でさえも一年のなかでクリスマスだけは別格で、特別視されている。

 クリスマス。
不思議なもので“クリスマス”と名のつくものは、すべて夢があり美しい響きのものばかりだ。
ショッピングモールに行けばかならず聴けるクリスマスソングや彩り豊かな電飾が施されているクリスマスツリー、ケーキ屋のショーウィンドウに置いてある美味しそうなクリスマスケーキ、DVDレンタル店でピックアップされているクリスマス関連の名作映画。そのどれもが美しかった。

 クリスマス。
それは世界中の子どもたちがサンタクロースに思いを馳せ、大人であっても笑顔がこぼれる夢みたいな日だった。
僕は、クリスマスが大好きだ。
いつだったか、テレビでサンタクロースを真っ向から否定するひとを見たけれど、そういったひとは、本当に心のさびしいひとだと思ってしまった。自分の目に見えるものや、自分にとって利益があることしか信じることのできない愛のないひとが世界にはたくさんいるのだと、僕はそのとき思い知る。

 そして僕はもう、20分くらいはここでうずくまっている。

 自分を取り巻く世界のすべてがクリスマスモードに染まっているのに、この街でただひとりしくしくと涙をながす僕だけが異物だった。
さっき知らない女のひとが、君どこか体の具合悪いの?と訊いてくれたような気がしたけれど、僕は喉がつまってしまい言葉を返すほどの余裕もなかった。
それからしばらくして、ただ下を向いて泣いているだけで反応を示さない僕の態度をそのひとは癪にさわったようで「何なのこの子…」と呆れたようにやぼったく呟き肩をすくめると、諦めてどこかに行ってしまった。
人の好意を無視したうえに、中学生の自分がこんな街中でめそめそ泣いたりしてみっともないにもほどがある。
ミサトさんがこんな自分を見たら「気持ちはわかるけど、しっかりしなさい。あんた男の子でしょ!」といって喝をいれるに違いない。
それでも僕の目尻からは、涙がこぼれてとまらなかった。

(悪いのは全部、僕なんだ。なにもかも、ぼくのせいだ…っ)

 別に、体の具合が悪いわけじゃない。
ましてやプレゼントが欲しくて涙を流してるんじゃない。
僕はクリスマスが大好きなのに、今は、この街ですれちがう人々の幸せそうな笑顔を見るだけでかなしい気持ちでいっぱいになった。





*******





 リョウジはたぶんもともと賢い犬だったんだろう。
ある程度聞き分けはよかったけれどやっぱり、躾をするのはとても苦労した。一番懐いているのは僕のようだけどミサトさんにもよく懐いている。
ひょっとしてリョウジは女のひとに目がないのかもしれない、と思うことがよくある。
なぜならリョウジを観察していると、散歩中に遭遇するメス犬や通りすがりの女のひとをやたらじいっと見ていたりするからだ。

 リョウジを飼って分かったこと…それは、なるほど犬の世話というのは、想像以上に大変だった。
犬は飼う前と後では、全然イメージが違ってくる。
それほど動物の命を預かるというのは、実際に自分が身をもって体験しなければその難しさが分からないということだった。

いつだったか、こんなに大変なら拾ってこなきゃよかったかもしれないだなんて考えてしまったこともある。
だけど僕はリョウジと出会って関わってゆくにつれ、そんな中途半端な考えを一瞬でもしてしまった自分が、今ではとても恥ずかしい。
たしかに犬を飼うのは大変で手間がかかるし、けっして一筋縄ではいかない。

 それでも僕は、リョウジが大好きだった。

 リョウジと出会ってからもう2年にもなる。
同じ屋根の下たくさんの時間をともに過ごし、リョウジの身体がどんどん大きくなっていくのを見るのは、ほんとうに誇らしかった。
褒めたり甘やかすとリョウジはたまに調子に乗ってこれでもかと尻尾を振りながら僕にのしかかって顔中をぺろぺろ舐めまわしたり、寝ようとしている僕のベッドの中にモゾモゾと入ってきたり(そのまま一緒に寝てしまうことも、たまにある)不思議な部分がたくさんある。
というのはリョウジはなぜだか、僕の心の動きに敏感なような気がした。

 嬉しいときもだけれど、かなしいときや不安を感じるとき…。
不思議とリョウジは僕のすぐそばにいてくれて、甘えるみたいに体を擦り寄せてきたりする。
そんな優しいリョウジに僕はどれほど助けられ、心を慰められているか―…。

 いつのまにか僕にとってリョウジは、なにものにもかえられない、かけがえのない存在になっていた。
失ってしまう痛みにくらべたら、世話するのなんてどうってことない。痛くも痒くも。

(それなのに。僕はリョウジを見失ってしまったなんて)

 これが、僕がいま絶望している理由だ。
クリスマスイブなのにこんなふうにみっともなく泣いている原因は、僕の不注意にあるのだから。

 今朝がた僕は人気のない道をリョウジの散歩中、一瞬ぼうっとしてしまって、手綱を持つ手が緩んでしまった。
その隙になぜか物凄い勢いで駆け出したリョウジの力強さに僕はぎょっとして、思わず手綱が手からするりと離れた。
犬という生きものはともかく走るのが早い。
しまったと思ったときはすでにおそく、リョウジが散歩中の歩道の先まで一目散に逃げていくのを僕は呆気にとられてながめていた。
 普段ののんびりとしたリョウジらしからぬ突飛な行動に、僕はリョウジの姿が見えなくなってからやっと正気に戻り、大変なことをしてしまったのに気づく。
そのあと家にも帰らず朝食を食べるのも忘れ、血の気の引く思いでリョウジを捜した。

 それでも結局、見つけることはできなくて。

(なんで、こんな日にかぎって…)

 僕は、見失ってしまったんだろうか。犬の飼い主として、失格だ。最悪だ。
たとえばもっと、手綱をきちんと握っていればよかった。そうしたらこんなことにもならなかったのに。
リョウジは基本、優しくてとても穏やかな犬だったから誰かを襲ったり噛みついたりすることはたぶんないだろう。(今までそんなことはしなかったし)赤い首輪も付けている。ミサトさんが、警察と保健所にも連絡をしてくれた。
しかしこの寒さのなか、お腹を空かせているかもしれないリョウジのことを考えれば考えるほど、かわいそうでつらくて、胸が張り裂けそうだった。
こんなことにならなかったら僕はきっと今ごろリョウジのすぐそばで夕食の、野菜たっぷりオムライスを作って七面鳥を焼いていた。
それにミサトさんだって、こんなことにさえならなければ安心して今夜のクリスマスケーキとシャンメリーを買いに行けただろう。

「リョウジ…。リョウジ、どこにいるの?僕、どうしたらいいか、全然わからない…」

 大切なリョウジをこんなにいとも簡単に見失ってしまうなんて、完全に油断していた。浅はかだった。
涙を拭こうと両目をこすりつつ、僕はリョウジが一体何を思ってあんなにも全力疾走で逃げていったのだろうと思いをめぐらせる。
だけどさっぱりリョウジの気持ちがわからなくて、為す術もなくただくやしくてしかたなかった。
いきなり逃げるだなんて、ひょっとしたら―――僕は何となく、いやな方向へ想像してしまう。

(もしかして、リョウジはあの家にいるのが苦痛だったんじゃないか?)

 リョウジはメスのことが大好きだ(と思う)けれど、家の中では同じ男である僕がほとんど世話をしていた。
ミサトさんも、声をかければ気立てのいい彼女なりによく手伝ってくれて助かった。
しかし、なにしろ彼女はとんでもなく大雑把で楽天主義な性格だったから、酔っぱらった日にはげらげらと笑い上戸になり、ふざけてリョウジにYEBISUビールを飲ませようとすることも日常茶飯事だった。
そういう時のミサトさんは正直めんどくさくて絡まれるリョウジもちょっと困っていたかもしれない。

また、もしくは僕にも何かしら原因があったんじゃないのかと考えたら、まるでキリがなかった。

(リョウジに嫌われちゃったのかな、僕…)

最悪の場合そうだろう…と思い、かなしさと寒さで震えながら、また涙があふれそうになる。



「…こんな寒いところにいたら、風邪引くぞ?」



 それは突然だった。
うしろのほうから―――僕の背中越しに、男のひとの声が訊こえた。
反射的にはっとしてうしろを振り返れば、そこには僕を心配そうに見つめながらたたずむ、ひとりの男性がいた。
すこしだけ無精ひげを生やした黒髪の男性で、ネイビーのファー付きモッズコートを着ている。
見た目は30代前半くらいの、どこか優雅な気品が漂う、穏やかそうな表情を浮かべたその男性は僕とかちりと目が合うと、ゆっくりとこちらへと歩みよってきた。

(えっ、な、なに…?)

 男のひとと見つめあったまま僕はぽかんと口を開けてしまう。
やがてそのひとは僕の真ん前までくると、立ちどまった。
そしてほんの少しだけ前屈みになったかと思うと、右手をすぅっと差しのべられた。


「立てる?」


 どこからともなく風にのって流れてくるピアノ演奏のクリスマスソングが、あまりにも今の情景に自然と融解し、耳に心地よく流れこむ。
白銀の世界のなか、クリスマスに魅了された人びとの誰もが僕のそばを何食わぬ顔で通りすぎてゆく―…。
それにもかかわらず、ただ、この男のひとだけが、驚くほど力強いゆるぎない視線を僕に向けてくるのだから、なんだかまるで浮世離れしているような世界が止まってしまったような感覚に陥る。

「は、はいっ、立てます…」

 僕はなんだかどぎまぎしてしまってはじかれるようにとっさに返事をした。
なぜか必死になってこの状況に対応しなければと思い、柔和な目つきで僕を見ているそのひとの手をとる。
そんな僕の手をとると、彼はゆっくりと立ちあがらせてくれた。
なんとなく男のひとのまなざしが気まずくて僕は目を逸らしたくなり、無理矢理に視線をはずし、

「あ、あのっ…、そのコートの色、いいですね…」

と、足元の靴を見ながらあたかもそんな突拍子もないセリフを云ってしまう。

「そうか?ありがとう」
「………。」

(どうしてかわからないけど、このひとの瞳を見てると…僕、へんな気持ちになってくる。このひと、なんだか…)

 前にどこかで会ったことがあるような―…。
何か大切なものが頭に引っかかっているような気がして不思議な気分になっていると、不意に、僕のお腹からぎゅるるるると気が抜けるような音が響きわたる。
せっかく親切にされたというのに思いもよらない醜態を晒してしまったことで、僕は恥ずかしさのあまり今すぐここから逃げたしたくなった。

(そういえば僕、朝から何も食べてないや)

男のひとの目の前で鳴ってしまった盛大な腹の虫に僕は、穴があったら入りたい思いだった。

「お腹空いてるの」

そのひとが、すかさず訊いてくる。
僕は身の置きどころがない気持ちでますます顔が上げられなくなり、言葉を発することもできず黙ったまま、こくんと頷く。

「じゃあ、肉まん食べよっか」
「へ…っ?」

 予想外の言葉を発せられたことに驚いて僕は思わず顔を上げた。
すると、男のひとは平然とした表情で、

「気分が落ちてるときにお腹が空いてると、ますます憂鬱になってくるぞ?俺がきみの分も奢るからさ、肉まん…どうだい?」

などと、そんなことをさらりと言いのけた。

「…肉まん…」
「食べたくないのか?」
「そ、そんなことはないですけど。でも…!」
「なら、決まりだな」

男のひとが悪意のない笑顔でそう言ってウィンクをするものだから、なんだか断る気力もなくなってしまう。





スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。