ひらひらと雪の舞うなか、どこからともなく漂ってくるおいしそうな家庭料理の匂いに、はやく家に帰らなきゃな、と思う。もうすぐ夕飯どきだったから。
学校から帰る途中、僕は友人たちと別れの挨拶を交わしたあと、ウォークマンで音楽を聴きながら街路樹の多く立ち並ぶ歩道をひとり歩いていた。
一歩ずつ脚を進めるたび、寒さで凍みたコンクリートの地面がかすかにぱりぱりと音をたてる。
指先のつめたい感覚を気休め程度にまぎらわすために着ているダッフルコートのポケットにちょっとだけ手をいれてみると、そこは体温のおかげで案の定ぬくもりがあったので僕はすこしだけ安心する。
このキャラメル色のダッフルコートは、先月ミサトさんが買ってくれたものだ。
コートの生地の内側の素材がなかなか温かいから、僕はこのコートをけっこう気に入っていた。
「さむいなぁ。手袋もしてくればよかった」
12月になってからというものますます冷えこんできているせいもあり、多少は厚着をしないと最近は外出するのもつらい。
はぁ、と吐息を漏らせば、白い水蒸気がもくもくとまいて、あっというまに冷気に溶けこんで消えてしまった。
自分の記憶に間違いがないならたしか昨晩のニュース番組で、今年のクリスマスはホワイトクリスマスになるでしょう、とお天気おねえさんがにこやかに喋っていた気がする。
(クリスマス。もうそんな季節なんだ…。近いうちに、クリスマス映画のDVDを借りてこよう)
ミサトさんと一緒に見れたらいいのにと考えながら、近所の古い公園の前を通りがかったそのとき―…
「キャン!」
と、突然、公園内から小さく犬の鳴く声が聴こえた。
思い当たる節がある僕は、げんなりしながらウォークマンの電源をOFFにして両耳からイヤホンをはずす。
(なんだ…今日もいるのか)
あれの存在に僕が気づいたのは、昨日の朝がたからだ。
登下校中、僕はいつもかならずこの道を歩いてこの公園の前を通らなければならなかったから、あれの存在はいやでも視界に入った。
“だけど、どうしようもないことだってあるんだから、僕には関係ないんだ。僕にできることなんかないんだ”と無理矢理見て見ぬふりをして昨日はスルーしたものの、あれから家に帰ったあと胸の内にはモヤモヤとしたわだかまりができた。それでもきっと明日には、あれの存在を発見した誰か―――公園付近を通った大人が撤去してくれるだろうと、そう思っていたのに。なぜか今日も、そのままの状態で放置されている。
このまま素通りしたいのに、どうしても気になってしまい声のするほうへ耳を澄ませて目を向ければ、昨日とかわらず―…ブランコの横の青いベンチの上に底の深い少し大きめな段ボール箱がひとつ、ぽつんと置かれていた。
段ボール箱の外側には白いコピー用紙が一枚セロハンテープでペタリと貼付けてあり、そこには太いマジックペンのようなもので一言、でかでかと大きな字で“リョウジ”とだけ書かれていた。
しかも段ボール箱が時々ガタガタ震えているものだから、なんだかそのシュールな光景に関わればきっとろくなことにならないと考えつつ、またしても気がかりでちらちらと公園のほうを見てしまう。
(どうせならもっと目立たない場所に置いてくれたらいいのに。ああゆうの、見てくださいって、気にかけてくださいって主張されても、こっちは困るだけなんだよ…!)
僕は公園から目を背け足早に通り過ぎようとした。
なるべく段ボール箱を見ないですむように。そして昨日と同じように―…
通り過ぎたはずだったのに、なぜか僕が公園から遠ざかってゆくにつれその犬は、次第に大きな声でキャンキャンと鳴き叫びだす。
(おねがいだから、僕に向かって、吠えないで…)
心の中で必死に犬に訴えたけれど、犬はあいかわらずキャンキャンと僕に吠えつづけている。
そうしているうち、いよいよ僕はその段ボール箱の中身が気になりはじめた。
それを自覚したくなかったのに、犬の鳴き声はあまりにもしつこくうっとおしかった。
(しかたない、ちょっとだけ。…ちょっとだけ、中身を確認するだけだ)
そんなふうな意気込みで、僕はついに立ちどまる。
自分にほとほとうんざりしながら公園まで引き帰して、それからブランコの横を通り過ぎた。
誰ひとりいないひっそりと静まり返っている公園内は、犬の声だけがやたらと周辺に響いていた。
僕は青いベンチの前に辿りつくとベンチの上に置かれている段ボール箱をまじまじと見つめた。
ぎゅっと拳をかため、おそるおそる段ボール箱に近づき、真上から中を覗いてみるとそこには―――
ゴールデンレトリバーのまだ小さな仔犬が一匹、しゅん、と耳を垂らし、つぶらでさびしそうな眼をして行儀よくお座りをしていた。
性別は…股間を見て、即座にオスだと判別する。
どうやら仔犬は人間が自分のもとへ来てくれるのを待ちわびていたらしい。
首を上に向け、クゥーンクゥーンとせつなく喉を鳴らし、まるで何かについて訴えかけてるみたいに、僕をじいっと見つめている。
「…お前、捨てられたんだろ?いい加減あきらめなよ。そんなにいい子にして待ってても、だれも迎えには来てくれないよ…、きっと」
僕が言うと、ゴールデンレトリバーの仔犬は高い声色でキャン、と一声鳴いた。
…こんなふうになってまでまだ、希望を棄ててないんだろうか。
もう一度あたたかい場所に戻れるとでも、信じているんだろうか。
「お前はいらない存在だったから、こんなに簡単に置き去りにされたんだ。迷惑で面倒で、邪魔なだけで、どうせ犬だからって…犬だから仕方ないって、お前みたいに捨てられる犬は世界中にたくさんいるんだよ。そのなかには本心では捨てたくて捨てたわけじゃないひとも多くいるだろうね。もしかしたら、お前を捨てたひとも…苦しくて涙を呑む思いでお前をここに連れてきたのかもしれない。だからといって、身勝手なことをされたのにはかわりない」
そうぽつりと呟きながら僕は、4年前の、ある寒い冬の日のことを思い出していた。
ふたりきりの部屋の中でわめくように泣いていた僕に何かを云い残すこともせず去って行ったあのひとはいま…、いったいどこで何をしているんだろう。
あのあとかなしみのどん底にいた僕に優しい手を伸ばしてくれた唯一のひとが、ミサトさんだった。
もし、あのときミサトさんと出会えなかったらたぶん僕は―…母方の、あの感じの悪い親戚に預けられていたかもしれない。
僕はあの親戚のひとたちがきらいだった。
あんなひとたちと一緒に暮らす日々を想像するだけで、恐怖で背筋が凍るような思いがする。
いま目の前にいるこの仔犬が、あのとき置いて行かれた自分と、すこしだけ重なる。
(お前は運悪く、人間の無責任で残酷な行為に巻きこまれてしまったんだ。もといた家にはもう、お前の居場所は残ってないんだよ…。お前のお父さんもお母さんも助けにきてくれやしない。お前は、こんな場所にひとりぼっちで置き去りにされた時点でもうすでに、そのひとたちの家族ではなくなってしまったんだから…)
それを仔犬に伝えたくても、僕の言葉の意味なんて犬は分かってくれるはずがない、と思った。
なんせ僕だって犬の言葉がわからないのだから。
このまま引き取り手がなければここで餓死するか保健所行きで殺処分という形になるんだろう。
わけもわからずガス室に連れて行かれ、誰に看取られることもなく、太陽の光の入らない薄暗い部屋の中で、死の恐怖に怯えながら…ただひっそりと死ねるならまだいい。
そんな犬や猫たちは安楽死なんてとてもじゃないけどできないのを、僕は本で読んだから知っている。
殺処分。
それは炭酸ガスを吸いこみながら苦しみにもがき、すぐには死ねない。そんな運命をたどる犬や猫たちは、苦しまずに死ぬことなんて不可能だ。
愛されるよろこびや幸せさえも奪われた犬や猫は、そんな哀れな最期―――いったい何を、誰を想いながら息をひきとるんだろう。
真っ暗な、かなしみと絶望の深淵のなかで。
死んでしまう運命さえもまぬがれないほどにこの小さな仔犬には自分で自分を守れるような力がないのだと、いやでも思い知らされる。
「…もしかしてお前は、自分が捨てられたのがわかってるの。だから僕を呼んでいたの…?お前はいま、寒いんじゃなくて、ひとりぼっちで死ぬのが怖いから震えているの…?」
そう言う僕の声も、すこしだけ震えていた。
空を見上げれば、その色は生クリームのようにふわふわと美しくどこまでもけがれのないまっさらな白さで目がくらみそうになった。
辺りが静寂につつまれるなか、雪はいまなお降りつづけている。
僕は、空を眺めるのが好きだった。
晴れた日とはまったくちがう、くっきりとした雲と青い部分の見分けのつかない冬特有の夕方の空をただこうしてじっと見つめているだけで、言葉にならないせつない気持ちで胸がいっぱいになる。
雪が降るとき、空と雲の境界線はまるであやふやになってしまうのに。それなのに、どうしてこんなにも、透きとおっていると感じるのだろう。
「僕ね…お前の気持ち、わかるよ。僕も前はそうだったんだ…ひとりでいるのが、かなしかった。だからずっと、僕のことを本当の意味で受けいれてくれる居場所がほしかった。誰かと家族でありたかったんだ…」
僕は仔犬の両脇に手を差し入れて持ち上げ、左手とその全体で腰を支えながら、右手で背中を支える。
うすいミルクティーのような色のやわらかであたたかくて弱々しい小さい身体を、落とさないようにしっかりと抱っこする。
仔犬は寒さと、それとたぶん、おとずれる死を待つ恐怖で―…怯えているのか、ぶるぶるがたがた震えていた。
僕は後悔した。
自分よりはるかに立場の弱いものの存在を目の当たりにして。
平和な日常に慣れてしまい、親しいひとたちがずっと自分のそばにいてくれるのは当たりまえだという感覚に陥っていたことに。
…目に見えるものは、いつかはなくなってしまうのに。
この仔犬だってきっと、捨てられる前は幸せだったにちがいない。
自分が捨てられる運命にあるだなんて、思いもよらなかっただろう。僕が、そうだったように。
(優しくて綺麗だった、僕の母さん。僕は母さんのことがほんとうに大好きで…小さいころ、ずっと永遠に僕の横で寝てくれるんだって思ってた)
だがそんな願いは、幸せな日々は突然失われてしまった。
母さんはもうこの世にはいない。そしてあのひとは―――父さんは母さんが死んでから変わってしまい、僕のもとから離れていった。
母さんがいなくなってから父さんだけが僕の生きる道で、支えで、安らげる場所だった。
父さんだけはいつまでも僕を愛してくれていると思っていた。愛してくれていると、思いたかった。
自分の愛していた一番身近なひとが忽然と姿を消してしまったこと―…それは僕にとって想像を絶する恐怖で頼れるひともおらず、もうつらくてかなしくて、自分はいらない人間だから死にたいとさえ考えた。
母さんのところへ行ってしまいと、何度思っただろう。
「帰る場所がどこにもないのって、ひとりぼっちでいるのって、つらいのに…僕は…っ」
最近は、あの頃の気持ちをすっかり忘れていた。
ミサトさんに救われてから平和な日常のなかに身を置いている幸せのあまり、僕はつらい記憶に蓋をしていたのかもしれない。
あの蓋の中身は今もなお、きちんと向きあうのが怖い。それでも―…
「すごくうれしかった…ミサトさんが僕に“おかえりなさい”って言ってくれたから。ミサトさんは僕のことを必要だって言ってくれた…。ミサトさんがいてくれたから、僕は毎日、ちゃんと家に帰れるんだ…」
ぎゅうっと仔犬を抱きしめれば、仔犬は最初こそ戸惑って不安そうにきょろきょろと周囲を見渡していたものの、さほど抵抗もせずに大人しく抱かれていた。
熔けた雪の水分で毛の表面はしっとりと濡れていて、犬の独特のつよい匂いが一層際立ち、つんと鼻を掠める。
仔犬は少しだけ痩せているように感じた。お腹も空いているにちがいない。
ひとしきり考えて、じっくり深く考えぬいたすえに、僕はついに責任と決意を固める。
「こんな寒いところにずっといたら、風邪引いちゃうよ。…だから僕と、一緒に帰ろう」
抱きしめたままで仔犬の顔を見つめ、僕はそっと話しかけた。精いっぱい笑顔をつくって。
それからもう一度仔犬を抱えなおし、僕は再び歩きだす。
仔犬とともに、家へ帰るために。
「だいじょうぶ、僕はお前の味方だよ。だからもう、こわがらないで…」
声に出してそう囁き、優しく背中をさすってやる。
しばらくすると、不思議と仔犬の震えがぴたりと止まった。
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