気が狂ったように一心不乱に逃げた。
彷徨った先に辿りついたのは、見たこともない景色だった。
目の前には濃い緑の生い茂る静寂を纏った森が立ち塞がっている。果てしなくうす暗い、深い森。
まるで意思があるかのように研ぎ澄まされた気配が漂う。
閉ざされた妖しい森の雰囲気にぼくは声もなく立ちすくんだ。誘いこもうとしている?この森は…。
湿り気のあるつめたい風が吹く。口のなかが乾いた。すこしの間を置いてから、歩みを進めるために森のなかへ一歩、前へと足を踏み出す。
途端に、泥で足が滑った。前のめりに転んだ。
膝や脛をつよく打ちつけてしまい、ぴりっとした痛みが走る。
格好のつかない体勢のまま起き上がる気力も湧かずに、弱々しい灰色で支配された曇り空を見つめる。数分も経たないうちにしずかに雨が降りだした。それはやがてざあざあと激しい大粒に変わり、辺り一面の木の葉を叩いて弾き返すと、弧を描くように地面へ落ち、広がっていく。手前にある濁った泥濘は瞬く間に水溜りと化した。
全身が雨でずぶ濡れになるのを感じながら、ぼくはなんとか立ち上がった。
身体も心も、ひどくおかしくなっている気がする。
すぐ右横に佇んでいる木に寄りかかって、そのまま地面に座りこんでしまう。
涙腺がこわれてしまったみたいにつぎからつぎへと涙が流れてとまらなかった。
―――居場所がないんだ。見つからないんだ。
学校になんて行きたくない。クラスメイトに話題をあわせ、流行りのテレビ番組や芸能人を語ってわざとらしくみんなと大盛り上がりしたり、誰が誰を好きだとか振ったとか、へらへらと笑いふざけあって噂したり。そんなのにいちいち付きあうなんて不快だ。鬱陶しいし、ばかみたいだ。
それなのに、その仲間に素直にはいれず焦る自分の矛盾さに、苛立つ。
焦りと怯えを隠すために、孤独でも平気なふりをした。真面目で優等生の仮面を被り、ひたすら勉強することで臆病な自分を守った。
周りからは他人と打ち解けようとしない曖昧で特殊なやつだと思われていただろうと思う。
家―――あんなのはニセモノだ。ぼくの帰りを待ってくれるひとはいない。
あのひとたちにとってぼくは、完全に邪魔者だ。
面と向かっては口にされなくても、影で恰好の文句の糧にされているのを知ってる。
鬱憤晴らしに平気な顔をして父さんや母さんの悪口を言いあって、自分たちがいちばん正しい考えをしていると必死に表面上だけ取り繕い擁護して、かろうじて態勢を保っているつもりでいるんだろう。
それでも、内側に潜む汚くて悪意に満ちた本性は微塵も隠しきれていやしないのに―…本人たちはそれに気づきもせず、呑々と偽善者面して偉そうなことばかり言って。
あっけなく、悲惨だった。自分も、周りも。
なにか、ぼくのなかで大事な部分が欠落していて、でもそれを埋める方法が見つけられなくてつらい。
くるしくて、くるしくて、無性にかなしくて胸がはちきれそうだった。
(もうだめだ、死んでしまいたい)
のけ者扱いされて。厄介払いされて。嫌われている。いらない子だ、と…。
だれかに関心を持たれないのなら、生まれてきたってしかたないのに。
溜めこんでゆき場をなくした思いを吐き出したかった。大声を張り上げて叫びたかった。
信じられるものなんて、当たり前のことなんてひとつもない世界で、増大するのは警戒心と不信感ばかりだ。希望、平和、愛だとか―…そういう類は、大袈裟に浮き立った思考の持ち主の身勝手な都合で補完された、架空のものなんじゃないか―――?
座りこんでいた木の根元、わずかな隙間に、それはあった。
ひっそりと、一輪の花が咲いていた。
こんな辺鄙な場所でも育ったのは、どこからか風で種が飛んできたせいか。
(―――花…、)
降りそそぐ雨滴を浴びつづける花に、ぼくはそっと手を伸ばす。
ちいさくて綺麗な白い花だった。ここにあるたったひとつきりの花。
影にあって誰の目にも留まらず、雨に濡れてもなお、凛とした強さで尊く気高く、純真に咲き誇っている。
「…きみに心はあるの?」
ほんの短い、刹那的な命。花は、平然と存在しているだけ。
なにかに迷惑をかけたりはしない。傷つくことも、傷つけることもしないですむ。
美しいからこそ散ってしまうのなら、咲くのはどうして?
自分もいっそ、花に生まれてこられたのなら―――。
森一帯を包みこむ雨音が子守唄に聴こえる。とにかく気だるくて、眠かった。
冷えきった指先で花に触れたまま、目を瞑った。
現実から離れて、心の窓を閉ざす。眠りにつくときだけだった―…、不安や憂鬱を手放せるのは。
ぼくが、ぼくでいられる場所へどこまでも深く、潜ってゆく。意識が遠ざかる。せめて夢のなかだけは。楽な気持ちで、いられたらいい…。
ただ、このせつなさを。暗がりで闇雲に足掻きながら、手さぐりしている―――…いまの、素直な気持ちと、痛みを。心隠さず分かちあえるひとに、出会ってみたい。そう思うと、また涙がこぼれた。
End.
2014.12.15
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