呆れるほど、鮮やかな
「よし、今日の仕事はここまでだ。シンジ君、後は適当に片付けて終わっていいぞ」
加持は立ち上がって両手によく晴れた日の夕暮れどき、人口天井の空を仰ぎ見てみる。きっと地上では大気に溶けてしまいそうな赤い太陽がゆらゆらと燃えて揺れているに違いない。
澄みきった水色と鮮やかなオレンジ色の混ざった絶妙なグラデーションの空が、夕日に染まる土地が、息をのむほど美しい。
嵌めていた作業用軍手をはずし、パンパンと軽く叩いて土を落とした。長時間しゃがみこんでいたせいか少しだけ腰が痛む。
つい二時間前までギラギラと照りつけるような陽射しを受けていたジオフロントは、やがて訪れる夜の気配を待っているかのように静寂を保っていて、心なしか寂しさを覚える。もうすぐそこまで夜がきているのだと。
だがそんな人の感情にはお構いなしに、今、目の前に広がる自然はただ美しくそこにあるだけで、時の流れに身をまかせながら摂理を保っているだけだ。
太陽が沈むとき―…夕方という時間はどうしてこうも、人の心をものがなしい気分にさせるのだろう。
今日という日が楽しくてもつらくても、夕方になると必ず思い出す。自分の過去と、あの頃の気持ちを。
真実を探求するために、ありとあらゆる手段を使って、必死になってきた。それは現在でもそうだけれども。
がむしゃらになれば、痛みが少しでも和らぐような気がしたが、実際そうでもなかった。
必死になればなるほど、逃げ道は閉ざされていく。
昔の記憶を辿っていくたびに感じる後ろめたさと、やりきれない思いで胸がつまりそうだ。
だから、与えられたひとときの幸せも、自ら手放してしまった。
手放してしまったものはきっと、もう二度と戻らない日々の、向こう側にあるもの。
ささやかな願望や本心でさえも目的を全うするためには犠牲にしなければ、この先ずっと後悔する。後悔するのはもううんざりだと、後に引くことなど赦されないと、自分に言い訊かせてきた。そう頑なに自分自身に誓ったはずだった。
はずだった、のに。今、自分は何をしている…。
加持は曖昧な笑顔をして、暑かっただろうにお疲れ様、と離れた場所にいるシンジに声をかけた。
(俺はまた同じことを繰り返してるじゃないか。目と鼻の届く先に、大切なものをつくってる…)
「加持さんもお疲れさまです」
何も知らないシンジは明るい声で応えた。
首に巻いていたタオルで顔の汗を拭きながら、広大なジオフロント内の一角にある、加持農園を見渡す。足元に広がる青々とした緑のスイカ畑に顔をほころばせながら。
直径15センチ程度の大きさにまでなっているスイカは、もうじき食べ頃だ。
後片付けを終えた加持が柔和な目をしながらシンジに近づくと、畑作業を手伝っていたシンジは草刈りをする手を止め、ふぅ、と息を吐いて立ち上がる。
気温が下がっているのせいか、山のほうから涼やかなひんやりとした風が吹いてくるのが汗をかいた体に心地いい。
「スイカ、だいぶ成長して大きくなりましたよね。早く食べれるといいなぁ」
「もうちょっとさ。多分、来週あたりには収穫できるかもな」
「ねぇ加持さん、もっと畑の野菜のバリエーションとか増やさないの?せっかく広くていい土地なのに。スイカだけじゃ勿体ないですよ」
「んー、今まで考えてみなかったことはないんだが…俺も仕事があるし、なにしろ手間と時間がかかるんでね。まぁ、シンジ君が協力してくれる、っていうなら助かるしやってみてもいいかな」
「きっと大丈夫ですよ。僕もできる限り手伝いますから」
冗談のつもりで言ったのに、シンジは本気で受けとめたらしく、快く返事をしてくれたのが加持にはなんだかおかしかった。
「ありがとな。そのときはシンジ君にお願いする」
「ふふ、楽しそうですね」
にこやかな顔で喋るシンジを見て、わだかまりがすぅっと消えていく。
相変わらず多情多感なその表情は、眺めていて本当に飽きない。
「ここは、俺にとって特別で大切な居場所なんだ。この場所にいるときだけは…本当の、ありのままの自分でいられる。そんな気がするんだよ」
ネルフ関係者のなかでも、シンジしかここが加持専用の畑だということを知らない。余程のことがない限りは、誰彼かまわず教える気はそうそうなかった。
加持はこうして時々シンジとともにふたりで農作業に励み、一緒にご飯や弁当を食べたりする。
お互いの休日が重なった日には、シンジは加持の部屋に宿泊することもある。
仕事から解放されてありのままの自分でいられるテリトリーに、今では当たり前のようにシンジがいる。それがとても嬉しかった。
もっとも、忙しない日常の中で堆積していくささやかな幸福が、自壊を招くことを分かっていても。
「汗かいてるのにこのまま帰らせるのも気が引けるしなぁ…、俺の部屋でシャワーでも浴びてくかい?」
加持は、ぽんとシンジの左肩に軽く手を置く。
そんな提案にシンジは少し間を置いてから頷くと、お世話になります、と申しわけなさそうに呟いた。
*******
(それでもこんな日々がいつまでも続けばいいと思った。願うことならば)
ネルフ内の自室でシャワーを浴び終えた加持は、脱衣所でバスタオルを使い、わしわしと身体中を大雑把に拭く。
脱衣所に置いてある脱衣籠の中には、いくつかの服が畳んで入れてある。加持はその中から適当に薄手の白いスウェットと黒いズボンを選んで着た。
着替えが終わって部屋に戻ってみると、先に風呂から上がったシンジが、ベッドの上でごろんと横たわっているのが見えた。
「ありゃ、もしかして寝ちゃったか?」
畑仕事で疲れたのだろう、シンジはベッドの上で丸くなって小さな寝息をたてている。その微笑ましい光景に、加持は安堵の表情を浮かべた。
まるで遊び疲れてぐったりしてる子どもみたいだと思いながら、加持は首をぽりぽりと掻いて、ベッドのほうへ歩みを進めた。
「おーいシンジ君、髪乾かさないと風邪引くぞー?」
寝ているシンジの傍らに腰かけてそう呟いても、シンジの反応はない。
気持ちよさそうにすやすやと眠っているシンジの黒髪を指先でそっと梳いてみると、ドライヤーをかけていないのか、まだかなり湿っていた。
タオルで軽く拭いてあるだけのような髪は、しっとりと濡れていて、艶々と輝いている。加持はしばらくの間、それを指に絡めてくるくると楽しそうに弄びながら、優しげな目をして恋人である少年の安らかな寝顔を眺めていた。
着替え用にと貸した加持の青いTシャツはシンジにはサイズが大きく、だぼだぼしているのが可笑しくてくすりと笑ってしまう。
そのTシャツの袖からすらりとのびる細い手足は白くてきめ細かくて、シンジはいつ見ても繊細な肌の色だ。
すぅすぅと小さな薄い唇から零れるのは、規則正しい吐息。閉じられた両方の瞼に綺麗に生えている長い睫毛。
「キレーなカオしてるよな…」
こんなふうにシンジを間近で見るたびに、思春期の少年の中性的で未発達な身体のつくりに、胸がどきりとする。
実際、加持はシンジから放たれる少年特有のフェロモンのようなものに何度もあてられて、抱いてしまったことがあった。
力づくでこの華奢な両腕を押さえつけたら、おそらく抵抗できないに違いない。
無理矢理しようとすれば、そのとき、シンジはまだ変声期を迎えていない高い声でいやいやと言い、泣きそうに歪んだ表情をしながら自分を見上げ、そして―…加持は想像して、ばつが悪そうにシンジから目を逸らした。
(何考えてる…。俺は獣かよ)
だが、すやすやと眠り続けるシンジを放っておいて、風邪を引かれるわけにもいかない。
本来ならこのまま寝かしておきたいという気持ちがあったが、シンジの体調のためにも加持は仕方なく起こすことに決めたのだった。
「シンジ君、おきて…」
優しく囁いても、シンジはまったく起きる気配がない。
加持はシンジの髪を梳いていた手を止め、柔らかい前髪をかきあげて額にそっとリップ音をたてながら口づけをした。
すると、シャンプーとボディーソープの香りがふわりと鼻を掠める。ボディケア用品に関しては彼なりのこだわりがあるらしい。
シンジが行きつけのドラッグストアから厳選して買ってきてくれたシャンプーとボディソープは、ほんとうにいい香りで、やさしくて心地よいものだった。
このシャンプーの香りは、カモミールという名の花のものだと、いつだったかシンジが教えてくれた。
どこか甘い、みずみずしい林檎にも似たような香りな気がする。
ちなみに、ボディソープは弱酸性だ。
(いい匂いだけど…これ、相当やばい…かも)
男の部屋で、しかも、あられもない格好をしてベットに横たわっているなんて。はやく襲ってくださいと言っているようなものだ。
ましてや、加持の目の前で。熟睡しているせいで触れられていることさえも気づいてくれない。
あまりにも無防備で純真なシンジの姿に、加持は心が疼きだす。そしてとどめを刺すかのごとく放たれるフェロモンに、頭がくらくらした。
今以上にもっともっと、触れたくてたまらなくなる。
「ん…、」
と、鼻にぬけるような甘い声で呻いて寝返りをうったシンジの白い鎖骨に、加持はゆっくりと右手を伸ばす。
滑らかなうなじに指先で触れ、そっと首筋をなぞって、掌をそろそろと下のほうへと移動させてゆき、Tシャツ越しに掌全体が胸に触れているような形になっても、シンジは気づかない。
「シンジ君、いい加減はやく起きてくれないとホントに悪戯しちゃうぜ。俺、そんなに気が長くないんだ」
加持は口元に小さな笑みを浮かべてひっそりと言いながら、掌で円を描くようにシンジの胸を撫でまわした。
そういえば、寝ている最中のシンジにこういった類の悪戯は今までにしたことないな、と思う。
いくら恋人同士だからといい、これじゃあ寝込みを襲ってるみたいだと多少気が引けたのだが、それでもシンジの反応が気になったので、しばらく続けてみることにした。
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