「ママ…」
そのひとことが、この狭い畳部屋の中で突然に静寂を破るのを、僕は何となく予期していたのかもしれない。
一週間に一度くらい、そういう夜がやってくるのだから。
ママ、と悲しそうに消え入りそうな、か細い声でアスカが呟いた。
枕元の時計に目をやれば、布団に入ってからもう1時間は経っている。
今日一日の出来事を思い出していてまだ寝付けずにいた僕が、ぼーっとしながら何もない天井を眺めている最中、今夜もアスカの寝言を訊いた。
これで何度目かは数えていないけれど、アスカはこうやって時々、夜中に突然僕の部屋に訪れて隣にやってきては、背中越しに寝ている。
そのたびに、口癖みたいに繰り返される固有名詞。特別な意味のある言葉。
いつかは、涙まで流しながら枕を抱いて縋り付くように、さびしげに言っていた。
夢のなかで、抱きしめてほしいひとがいるの?もちろん、そんなこと訊く勇気もないけど。
アスカはどんな夢を見ているんだろう、と考える。
こんな声出すくらいなんだから、きっと、とても悪い夢か、悲しい夢なんだろう。
まるで幼い子どもが迷子になって必死に母親を捜してるみたいに、頼りない声色でアスカは“ママ”と言う。
アスカのママ…。
ママが出てくる夢?アスカはママが大好きで、こんな遠い日本まで来て、慣れない暮らしをしているから寂しかったりするんだろうか。
ドイツに帰りたいだとか、思ったりするのかな。
もう日本の日常生活には馴染んでいるようにも見えるけど、周りにはそうやって元気な自分を取り繕ってみせているだけで、本当は無理をしているのかも、と思う。
アスカは強がってるけど、そうでもしないときっと自分を保てないんだ。なんとなくそんな気がする。
僕はアスカみたいにプライドが高いわけでもないし、容姿端麗でもないし、エヴァの操縦者として誇り、みたいなものはない。
だけどやっぱり誰かに認めてほしくて。アスカもいつだったか、みんなに認められたいと語っていた。
あのとき僕はそんなアスカの言葉を訊いて、ほんのちょっとだけ安心したんだ。
アスカと僕がなにかひとつでも同じ気持ちを共有しているのが、そんなのくだらないと言われても、僕はただ嬉しかった。
でも僕は、まだ知らない。アスカのことなんて何ひとつ。アスカだって知らない。僕のことなんて何ひとつ。
なにせ僕ですら、僕自身のことを何ひとつ分かっていやしなくて、分かろうとすらしてない。
自分と面と向かって見つめあうのが嫌で目を逸らして、逃げてばかりだ。
悲しい過去もつらい現実も、いつだってこの手のひらの中にすっぽりと包まれていて、開けば簡単に湧いて出てくる。
自分と向き合ったって、僕は、僕自身を受け入れられるもの―…肯定できるものなんて持ってない。
自分が嫌い。だからいつも孤独がおしよせる。他人がいるから、ひとりが怖い。
「ママ…」
アスカは再び、わずかに唇を動かしてその名称を淋しげに小さく口ずさむ。ママ、ママ…。
お母さん…。母さん。
その単語を聞くと、僕も胸がきゅうっと締め付けられるみたいに苦しくなる。
僕の母さんはもうこの世界にはいない。死んじゃったんだ。突然消えてしまった、僕の母さん。
ねぇもし母さんが生きててくれたら、今の僕に、なんて声をかけてくれたの。僕、これからどうしたらいいの、教えてよ。
母さん、ぼく…誰かに必要とされたいんだ。
「うっ、ぅ…」
小さく膝を抱えて、アスカが泣いてる。
はっとして急いで身体を捩ってアスカの顔を見ると、頬にいくつか涙が透明な筋をつくって伝っていた。
何度も寝返りを打ったせいか、タオルケットがはだけてしまっていて、朝までこんな状態でいたら間違いなく寝冷えしてしまう。
「ちゃんと布団被らないと、風邪引いちゃうよ」
この声はアスカの耳には届いていないだろうけど、僕は囁いてみた。
今、目の前にいるアスカは、弱くてちっぽけで、強がりなんかじゃない、純粋な女の子だ。
「アスカ…、おやすみ」
僕は布団にずり落ちているタオルケットを手に取り、そっとアスカに被せた。
こんなにも近くにいるのに力になれない。
何も知らない僕はまだ、アスカのために、これくらいのことしかできなくて。
*******
僕たちはぽかぽかとした陽射しを浴びながら、ふたり並んで並木道を歩いていた。
どこからか甘い焼き菓子の匂いが漂ってくる。
たぶん、この近くの民家からだろう。
「お腹が空いてきちゃいそうな匂いがするね」
「そういえばアンタ、甘いもの好きだったわね。ドイツはそこらじゅうにあるわよ、ケーキ屋やお菓子屋。あと、パン屋も」
「あとから寄っていい?」
「別にいいけど。あ、この近くに美味しいケーキの店あるけど、そこ行ってみる?」
もしかすると、あの味にうるさいアスカのお墨付きのケーキ屋なのかな、と考えてすこしだけ興味がわいた。
「ほんと?ありがとう」
「ついでだから気にしないわよ」
「アスカは好きなケーキとかあるの?」
「…シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテと、アプフェルシュトゥルーデル」
「へぇ…どっちも長い名前だね。僕、ドイツのケーキってバウムクーヘンぐらいしか知らないから…」
「ふーん。じゃあ食べ歩いてみる?」
珍しくアスカのほうからされた提案。僕はそれに「うん」と笑顔で返事をする。
案内してくれるのがアスカなら…きっと楽しいだろうと思ったから。
季節は春だった。本来ならば。
南から柔らかな風が吹いていて、アスカの白いワンピースがふわふわと靡いている。
慣れない異国で初めて眺める景色。それはとても新鮮で不思議なもので、ここは日本ではないのだと改めて思い知る。
僕みたいな身分じゃ普段滅多に来ることなんてできない土地の美しい風景。
だからこそたっぷりと目に焼きつけておきたくてきょろきょろと辺りを見渡していると、困ったように苦笑したアスカに案の定、落ち着きなさいよと罵られた。
「着いたわよ、シンジ」
「ここが…」
そうしてアスカに連れられて辿り着いた場所は、森の中にある、ひっそりとした、だけど木の木漏れ日がきらきらと辺り一面に降り注がれている、綺麗なところだった。
地面ではさわさわと爽やかな緑の草が揺れていて、あちこちにが咲き乱れているのは、名も知らぬ可憐な花。
森の木と花の混じった匂いは嫌いじゃない。
こんな穏やで温かな場所に、ぽつんと建てられている白い墓石。
アスカは手に持っていた黄色い花束をぎゅっと握りしめながら、目を細めて、どこか納得してるみたいに穏やかな声色で話しだす。
「ママはこの下で眠ってるわ。だけど私は平気よ。すごく時間はかかったけど…ママはずっと私の中で生きてくれているって、気づけたの。これからもずっと、私のそばにいて見守ってくれてるって…」
「…うん。そうだね」
それ以上は僕は何も言わなかった。
アスカの蒼い瞳が真っ直ぐに前を向いていたから。
「だから別に、今はもう悲しくなんかないの」
「そっか」
「シンジはどうなのよ」
訊かれて、僕は思っていることを素直にアスカに云う。
「悲しくないよ。昔は違ったけど。僕にとっての母さんも、きっと…。ねぇ、アスカ。僕も、アスカみたいに…思ってもいいのかな」
「バッカじゃないの、そんなのあたしに聞かずにあんた自身が決めればいいじゃない」
「…アスカならそう言ってくれるって思ってた」
「ほんと意味分かんない。あーあ、あたし何でシンジなんか連れてきたんだろ」
僕に対するアスカの反応は相変わらずで、でもそれが逆に嬉しくて、
「でも、アスカが一緒に行こうって言ってきたんだよね?」
と小さく笑いながら茶化せばアスカは頬っぺたを紅くして「そ、そうだけど」と、矛盾した言葉を返してくれた。
きまりの悪そうな、子どもじみた、照れくさそうな顔で。
アスカはもう、泣いてない。
言葉足らずかもしれないけれど、いつか届くように
End.
2012.10.29
後半は未来設定です。アスカとシンジ君は高校生くらい。ドイツにて、キョウコさんのお墓参り。
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