時計の針が夜中の1時半を指そうとしていた。

 とっくに陽の暮れてしまった空はどこまでも果てしない闇が広がっていて、流れの早い雲の間からいくつも小さな星が顔を覗かせている。あちらこちらで様々な色が混在している第3新東京市の明るいネオン街。人工的な灯りは異様なほど眩しくきらきらと光を放ち、街全体を照らしていた。その町の一角を、ある一台のスポーツカーが颯爽と走り抜けていく。
運転中の加持は隣にいる少年を横目で見て様子を覗ったが、当人は無表情で黙り込み、加持の存在などまるで意にも介していない、といった感じだ。
どこか遠くの景色を眺めている彼が、それでも何か喋り出すのを加持はただひたすら待っていた。

 ふたりの間に流れている、殺伐とした空気。

 加持は、シンジが自分に対して警戒心を解かないことに内心、苦笑いをした。
現在のような状況になった経路、それは今から10分前に遡る。





*******





「やれやれ、ずいぶんと時間食っちまったな」

 ある重要な仕事の用件がようやく済んでジオフロントへ向かう途中、加持は車を運転しながらそんな独り言を呟いた。
たびたび襲ってくる眠気に耐えながら、ハンドルを握り直してやがて交差点を左折すると、色街の通りに差し掛かった。
暇を持て余す男性や仲良さげに密着して歩くカップル、その他大勢の若者達がまばらにいるその歩道の横には、風俗店やラブホテルの華美で目立つ看板が多く立ち並んでいる。
そろそろ自分も溜まってきた頃かもしれない、などと呑気に考えていた加持だったが、それより今は早くこの疲れ切った体にシャワー浴びさせて、一刻も早くベッドで癒されたい、休みたいという気持ちのほうが強かった。
 だが、次の瞬間目にした通行人でそんな思いはふっ飛んでしまったのだ。
加持の車があるラブホテルを通り過ぎる時、そのホテル前で非常に見知った、こんな場所とは全く無縁でまるで接点のなさそうな少年の顔を見つけた。

人違いかと思ったが、素早く振り返って見ればそれは確かに彼だった。

(どうしてあの子がここにいるんだ…)

場所が場所なだけに、加持は驚きのあまりくわえていた煙草を落としそうになる。
しかし、冷静になってすぐ近くにあった駐車場に急いで向かい車を停めた。
 彼の元へ行かなければ。そう反射的に思う。
そしてエンジンを切り車から降りて、ラブホテルを見上げている小さな背中へ一歩一歩近づいてゆき、後ろからゆっくりとその肩に手をかけると、華奢な身体がビクリと震える。

「制服でこんな所にいたら目立つぞ、少年」
「…加持さん…」

 こちらを振り向いてシンジは一瞬固まる。
自分を見上げては目を大きく見開いたその表情は、何であなたがここにいるんですか、と物語っているようだった。
シンジはしばらく心底驚いていたが、やがて正気に戻ったのだろう。さすがにまずいと思ったのか、肩に置かれている加持の手を振り払おうとした。
だが、加持はそれを許さずに今度はシンジの右腕をがっしりと掴み、引きずるように無理矢理歩き出す。
いきなりの行動に戸惑うシンジを無視して、加持は自分の車が停めてある駐車場へと進む。
強制的に連れて行こうとする加持に対し、シンジはいぶかしそうな顔をして、掴まれた右腕に力をいれて振り解こうとしたが、そんな様子を全く気にとめることなく加持は歩みを速めた。
 そしてあっという間に駐車場に辿り着き、加持は車の前で立ち止まってゆっくりとシンジを振り返る。
目が合ったシンジは眉を寄せてキッと加持を睨みつけ、普段の彼では想像できないような激しい口調で抵抗するのだった。

どうやら、シンジは本気で怒っているらしい。

「加持さん、離してください!」
「それはできないよ。俺が家まで送るから、帰ろう」
「帰りません」
「君が俺の立場だったとしても、見て見ぬフリなんてしないだろう?普通。こんな遅い時間に中学生が、ましてやシンジ君が夜の街をフラついているなんて」

 加持がそう言って諭しても、シンジは一歩も引こうとはしない。
一体何が彼をここまで必死にさせているのか?加持は頭をフル回転させたが、まずは早くこの場所を離れなければと思った。
シンジが相変わらず自分に鋭い眼差しを向けているのを感じたが、かまわず歩き続けた。

「いくら男の子だからって言ったって今の時代、物騒だからな」
「そんなの知りません。加持さんの都合なんて、立場なんて僕には関係ないですよ!とにかく、僕は戻らないといけないんですっ。もうすぐしたら待ち合わせしてる人が来るのに、」

 その台詞を聞いた瞬間、加持は眉をピクリと動かした。
先ほど、何となく予想していた嫌な予感が的中してしまったことに胸の内が変にざわつく。
自分が知らないところでシンジがしようとしていた行為を何となく予想できて、引きとめる自分を、邪魔だと言うシンジ。そんなにしてまで、会いたい人物とはどこの誰なのだろう。
知りたい、と加持は思う。彼が何を考えて、どうしてこんな場所に来ていたのか。その理由を、直接彼の口から聞かないと気が済まない。
それはシンジのすぐ傍にいる、身近な大人の興味本位的なものからきているのかもしれない。
しかし、ただの興味本位にしては焦っている自分の心中に違和感を感じながらも、いたって紳士的な態度でシンジに問いただした。

「へぇ、あんな場所で待ち合わせ、か。君は自分の身体でも売る気だったのか?」
「それは…」

やはり図星だったのだろう、シンジはきまりの悪そうな顔でうつむき、唇を噛み締めた。こんなの納得できない、といった言葉が表情に表われている。
それでも加持が歩き続けていると、さっきまで抵抗していたシンジも諦めたのか、何も言わず大人しくついてきた。
ネルフ関係者に見つかってしまった以上は、もうどうすることもできないと悟ったのかもしれない。

 やがてホテルから徒歩1分も満たない近隣の駐車場所に着くと、加持は助手席のドアを開けてシンジに座る様に促した。
だがいつまで経っても車に乗ろうとしないシンジに、加持はこれからどうしようかと考え始めたその時―…。
シンジは、地面に目を向けたままぼそりと加持に向かって問いかけた。

「この事、ミサトさんに報告するんですか」
「まぁ、そのつもりだ」

からかうつもりで放った先程の一言に、シンジが青ざめる。
その反応が面白くてつい加持はクスリと笑ってしまった。
どんなに強がっていても内面の弱さは隠せない、彼のそんな不器用な部分に。

「なんてね、冗談さ。少し話さないか。そうだなぁ、これからちょっと遠回りしてから帰ろうか」

シンジの反応からしてミサトには何も言って来なかったに違いない。
今はシンジの家族同様であろう存在の彼女が、知っていてシンジひとりをこんな真夜中に出歩かせるわけがないのだ。

「夜間ドライブに付き合ってくれるっていうなら葛城には言わないでおく。もしアイツに質問攻めされたら、俺が適当な言い訳しとくから。…いいだろ?」

 まるで逃げ出す隙を与えようとしない加持の誘いに、シンジは断る術もなかった。





*******





 走行中、通り過ぎてゆく目の端に映るネオンの光が少しだけ目に痛かった。
加持はふいに煙草が吸いたくなってきたが、助手席にシンジが座っているのを配慮して我慢することにした。
ふたりの間には車を発進させてからしばらく沈黙が続いていたが、先に口を開いたのはやはり、加持のほうだった。

「シンジ君ってそういうコトにはまだ無頓着なのかと思ってたけど、意外とそうでもないか。やっぱり男の子なんだなぁ。相手は綺麗なお姉さんか?」
「………。」

シンジは返事をしなかったが、加持はもう一度話しかけた。

「もう今さら隠す必要なんてないだろ。葛城には絶対に言わないから、話してみてくれないか」

加持はそう言ってちらりと横目でシンジを見た。少々強引な方法で彼を連れてきてしまったが、良識のある人間なら普通はこうする筈だ。
良識のある人間、とは言っても、自分でそう信じたいだけなのかもしれない。
どこかうしろめたさがあるのは、己の潜在意識に…本当の願望はまた別のところにあるのに、気付いてしまったから。

「男の人ですよ。僕よりもだいぶ年上の」
「おいおい、じゃあ君は…」
「あの人が僕を抱きたいって言ったんです。最初はそういうのを目的で会うのはちょっと抵抗あったけど、お金もくれるって約束してくれたし、別に僕は…なんかもう、どうでもいいやって」

シンジが無表情のまま抑揚のない声でそう答えたのに対して、加持は眉を寄せて溜息を吐いた。
彼がどうやってその男と出会ったのかということまでは聞くつもりはなかったが、この少年が援助交際をするところであったという重い事実に頭がぐらぐらした。奇跡に近い偶然で色街の中にシンジを見つけれたことに大いに安堵したが、もし自分がシンジを引きとめなかったら、確実に欲求不満な男の餌食になっていただろう。

「何にしろ、中学生のとる行動としてはちょっと見過ごせないな。運が悪けりゃ補導されてるぞ。それに君は碇司令の息子でエヴァのパイロットなんだ。ネルフの監視下に置かれてるってこと、忘れちゃいないだろ」

加持が諭すような口調で助手席に乗っている少年に話しかけると、

「ミサトさんみたいなこと言うんですね、あなたも」

と、シンジが気だるそうな声でそう答えた。
ミサトと同じようなことを、そう言ったシンジの言葉には明らかに棘が含まれている。

 加持は、以前から、君は決してひとりなんかじゃないから、時々でもいい、俺に頼ってくれ、甘えてくれ、話なら何でも聞くからと、少ししつこいかなと感じるくらい言ってきたつもりだった。
それだけに今回の出来事がよけいに許せなかったのかもしれない。
たとえ自分の独りよがりだったとしても。少しは伝わっていると思ったのに。
結局のところ、自分はシンジのことをまだ何ひとつ分かっていやしない。その事実に、加持は大きく落胆したのだった。
加持自身、シンジに対してまるで尋問のような言い方にいい気はしなかったし、シンジもきっと叱られていると感じているに違いない。

だが自分の仕事の立場上、ネルフ特別監察部所属の加持リョウジとしてはエヴァのパイロットである碇シンジや惣流・アスカ・ラングレーを、ミサトと同様、見守らなければならないという役目も担ってるのだ。

 14才の少年少女。それは思春期真っ盛りの、多感な年頃だ。
急激な身体の成長は始まっても、メンタル面は同じようにそれに伴ってくれない。
心は子どもと大人の間をさまよい続け、境界線があやふやになる。
些細なことで感情を揺さぶられ、情緒不安定になる。
大人になることへの興味が高まり、性に関しても好奇心を持ち始めるが、やはり中身はまだまだ子どもなのだ。
様々な可能性と才能と夢を背負って将来への道を歩んでいく子どもたちが、なぜ大人の都合で命を危険に晒してまで正体不明の敵と戦わなければならないのか。加持はいつも疑問に思っている。

そして自分も、その勝手な大人のひとりだ。

 エヴァのパイロットに、悩める少年少女達の力に少しでもなれたらと心のどこかで決心していたのは、やはり自分も幼少時に辛い出来事や仲間と弟を失ったという悲惨な過去を経験していたからかもしれない。
あの頃の加持の大切な人達は、この世にはもういない。
むしろ自分せいで、もう二度と会えない遠い別の場所へ行ってしまった。
あの日以来、寂しくてつらくて、孤独に押し潰されそうになる夜が何度あったか数えきれない。
だからこそ、そんなときに自分のそばにいてくれて、義務からではなく心から励ましたり支えたりしてくれる人がいたらどんなに嬉しいだろうと何度も思っていた。
同情だけが優しさでないことも分かっているが、それでも同じ気持ちを共有することはけっして悪いことなんかじゃない。

 碇シンジの生い立ちはとても複雑だ。
物心つく前に母親が不慮の事故で他界し、子どもにとって一番大切な時期に母親の愛情を充分に受けることができなかった。
残った唯一の肉親である父親に遠い親戚に預けられ、幼いながらもいきなり他人の家庭環境に対応しなければならなかったシンジに、居場所なんてどこにもなかったんだろう。

「もう写真で顔も知ってるし、悪い人じゃなさそうだったから…。会ってみてもいいかなって。あの人なら僕に優しくしてくれると思って…」

 ぽつりぽつりと呟くシンジはどこか遠くを見つめていて、その先に何があるかは分からない。
この子は、酷く愛情に飢えている。それは何回かシンジと接するうちに薄々感じていたことだった。
そして、愛情慣れしていない、思春期特有の悩みや不安を抱える彼に、やたらと説教じみたことを言っては放っておけない自分の可笑しさ。
お人好しとか、そういう部類のものではないけども。


「愛のないセックスをしても、ただ虚しい気持ちになるだけだ…」


俺がそうだったようにね、と加持が寂しそうに笑ってつけ加える。
いわゆる、性欲処理というやつだ。そんな関係を持った女性たちの大半の名前は、もう忘れてしまった。

「加持さん…僕、あなたが苦手です。きらいなんです。あなたの説教なんて聞きたくもない」
「へぇ、そりゃあ光栄だ」
「きらい、そういうところが…!勝手に近づいてきて、人のテリトリーにズケズケ入りこんで。僕はあの人に会ってみたかった。それなのにどうしてだよっ?加持さんさえ来なければ、僕は…っ」
「よその男と一瞬でも快楽が得れただろうな。でも君は知らないんだよ。君みたいな子に手を出す男はけっして優しくなんかない。まるで欲望の塊の変態みたいな奴に決まってる」
「関係ないですよ変態でも何でも!僕に優しくしてくれる人なら誰だってよかったんだ!!」

シンジは、もう放っといてよ、と全身で加持に訴えるかのようにムキになっていた。
だが、それでも加持は引き下がらなかった。

「優しくされるなら誰でも、いいんだな?じゃあ、俺とでもできるのか? 愛はないけど、優しいセックスってやつを」
「…できません。さっきも言ったじゃないですか、僕はあなたがきらいなんです! なんでも見透かしたみたいな言いかたして。加持さんに僕の、僕の何が分かるっていうんだ…」

 街灯がぽつりぽつりと点在する人通りの少ない道路を走りながら、やがて、加持の運転している車は都市の喧騒から離れてゆく。
闇に光が呑み込まれていくように、遠く離れた街の灯りはゆらゆらと歪んでゆき、それがやがて小さな点にしか見えなくなるまで、シンジはいつまでもいつまでもそれを眺めていた。


「…俺はね。俺のできる範囲で、君を護りたいと思ったんだ。だからシンジ君が俺を、どんなに嫌ってくれたってかまわない」


 昼間はあんなに蒸し暑かったというのに。
いくら真夜中とはいえ、今は不思議なくらいに周りの空気がひんやりとしている。
シンジの白い首筋に、つう、と一筋の冷や汗が流れるのを横目で見て、加持は目を細めた。

 シンジは微かに震えていた。







End.

2012.07.09




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