映画館からの帰り道。
僕と男のひとはその映画の内容について、まるで反省会のようなノリで色々と語りあう。
「なんかこう、救いようのない話でしたね。世界観はおもしろかったんですけど。あとナレーションのひとの口調が淡々としてて怖かったです」
「うん、わかる。1時間ずっと緊迫感が漂ってたし、ちょっと疲れたよ」
「ふふ、そうですね」
「だから映画館出たあと、ショッピングモールの店内BGMでチャーリー・ブラウン・クリスマスが流れてて…なんか安心した」
「あ、それ僕も思いました!あの歌、可愛いですよね」
そのとき、前方からものすごいスピードで車が走ってきた。
この道はあまり道幅が広くなく一般の歩行者も多いので制限速度は40キロだというのに、その車はやけにスピードを出して不安定な走りでこちらへ向かってくる。僕は思わずギクリとして、足がすくんで動けない。
「シンジ君、危ない!」
男のひとは、さぁっと顔を青ざめて叫びながら僕の腕をびっくりするくらいの強い力で引っ張った。
そうして、僕の身体は引き寄せられるようにそのひとの身体にぴったりと密着させられてしまう。
「わっ…」
僕の頬が熱くなると同時に、迷惑な暴走車は猛スピードで横を通りすぎてゆくと近くの信号を左折していった。
男のひとはほっと胸を撫で下ろし、車の去っていった方向を見つめいぶかしげに眉間に皺をよせると、
「ったく何考えてんだあの車、歩行者見えてねぇのか?徐行も知らないなら車なんて乗るなよ…!」
と、こわい顔で吐き捨てるように言う。
(このひと今、本気で怒ってる…?)
僕はこのときまで彼の穏やかな表情しか見なかったから、こんな顔もするんだなぁ、と、ほんのすこし驚いた。
そして僕は男のひとの身体に密着させられたままの状態に内心どきどきしつつ、真剣にかばってくれたことがとてもうれしくてかたじけない思いだった。
「あ、ありがとうございます…僕のこと、気にかけてくれて」
お礼の言葉を口にすると、それを訊いた男のひとが、ふっと表情を緩めた。
心から安堵したような瞳が僕の顔を覗きこむ。
「いいよ。びっくりしただろ、大丈夫?」
「僕、平気です…」
「…そう、よかった」
「あの…!えっと、身体…っ」
「ん?あぁ、ごめん」
照れる僕をおもしろそうに見つめながら、男のひとはそっと身体を離す。
(あれ?そういえば僕、いつのまにこのひとに名前、教えたっけ…?)
僕たちが肩をならべ会話しながら並んで歩いていると―――いつのまにか、僕の家の近所の公園近くに辿りついていた。
「ちょっと休憩がてら、あそこのベンチに座ろうか」
男のひとが指差した場所、そこは。
僕とリョウジがはじめて出会った場所でもある公園の中の、青いベンチだった。
なんでよりにもよってあんなところで…?と思いつつ、男のひとに連れられて結局、僕らはそのベンチに座ることになった。
腰を下ろしてみるとなぜか、ベンチの上はまったく濡れていなかった。
今朝から雪が降っていたにもかかわらず、不思議だな、と僕は思う。
ベンチに座ると僕も男のひとも、何も喋らずにふたりでただ静かな空気に浸っていた。
ちらりと横を見ると男のひとは、何か考えごとをしているみたいにただじっと空に視線を向けている。
そうして僕はぼんやりしながら公園内を見渡せば、思い出すのはやはりリョウジのことばかりだった。
この公園で―――…僕とリョウジは出会った。
今ではリョウジの散歩の途中で立ち寄るお決まりのコースでもあり、晴れた日にはフリスビーもする。
春にはブランコの横にある大きな桜の木の下で、満開の桜の花びらがひらひらと風にゆられて散ってゆくのをふたりしてながめていた日もあった。
(このベンチにただこうして腰かけているだけで、僕は…)
リョウジとともにすごしたあたたかい木漏れ日のなかにいるような思い出が、頭の中をぐるぐるとかけめぐる。
それは今この瞬間、憂鬱以外のなにものでもなかった。
僕はだんだん気分が沈んできて、まだ見つからないリョウジのことを考えながら鼻がつんと痛くなる。
するとふいに男のひとが、空を見上げつつ僕にむかって、ひとりごとのように呟きはじめる。
「俺、雪が好きなんだ。クリスマスも」
「…僕もです」
「この季節に、俺は愛するひとに出会った」
リョウジを思いながら憂鬱になっていた僕は急にそんな話をふられて、唖然としてしまう。
けれども男のひとの話にもなんとなく興味があったので、身を乗り出して相槌を打った。
こんなにも格好よくて優しいひとなのだからきっと彼女や婚約者がいたっておかしくはないだろう、と思いながら。
「あの子は家事なら何だってこなせちゃうし、料理もすごく上手いんだ。どちらかというと文系で、本当に優しい子で…とにかく繊細な心の持ち主だから、どこか危なっかしくてさ。目がはなせないというか。それに笑ったときの顔がとっても可愛いんだ。あんまり可愛い子なもんだから、ときどきその笑顔をひとりじめしたくなるんだけど…」
男のひとはさらにつづけてこう言った。
「俺はね…あの子を、心から愛してる。はじめて出会ったあの日からずっと。今も、これからも…あの子だけが俺の、世界のすべてだよ」
僕の目をまっすぐに見つめながら、男のひとは愛おしそうにふわりと微笑む。
そのおおらかで優しい視線に、まるで自分に向かって言われているような感覚になってしまい、なんだか恥ずかしいような心がくすぐったくなるような、うれしい気持ちになった。
きっとその相手のひとは、この男のひとによっぽど愛されているにちがいない。
「あの子のやさしさと一途な決意が、絶望していた俺を救ってくれたんだ。あの子は俺に帰る家を、生きる場所をあたえてくれた。ほんとうに感謝しても感謝しきれないくらいさ。ありがとうって何度も何度も言っても足りないくらいなんだ。もし、この想いをすべて伝えることができたなら…俺は声が枯れたっていい」
僕はただ、黙っていた。
「自分がどうあがいたって無力だってことくらい分かってる。俺のできることなんて、本当に少なくて嫌になるよ。だけど、どうしてもあの子に恩返ししたいんだ…。あの子がつらいとき、かなしいとき、楽しいとき…俺はあの子のそばにいて、あの子の言葉に耳を傾けることしかできない。それぐらいしか、」
「そんな、そんなこと言わないでください!あなたは無力なんかじゃない、それぐらいのことなんかじゃない…。あなたのようないいひとに大切に想ってもらえるなんて、もう充分そのひとは幸せなんですよ!!その人にとっても、あなたは大切なひとなんですよね…?」
僕が丁寧に訊くと男のひとは、そっと笑ってこたえてくれる。
「うん…。きっと、そうかも。まぁ、俺の口から言うのもなんだかちょっと照れくさいけどな」
「じゃあそれでいいじゃないですか…!僕はっ、」
どうして僕はこんなに必死になって喋りたくっているんだろう。
今日はじめて会った男のひとの前で、泣きそうになりながら。
「僕は、必死に探してたんです。僕にとって大切な存在が突然消えてしまって…僕、かなしくてさびしくて、それでも信じたかったんです。あいつが僕を信じて帰ってきてくれたらいいのにって。僕のところへ帰ってきてくれるんじゃないかって、それを信じていれば、きっと…っ」
自分でもめちゃくちゃに不器用なことしか言ってないとわかっていたけれどそれでも僕は、うまく言葉に表せなくても、声に出して言わずにはいられなかった。
「いま、目の前にあたえられたものを…いとおしいって、大切にしたいって自分に誓っているあなたの気持ちを僕は…とても価値のあるものなんじゃないかって、思いました…!だからあなたは、無力なんかじゃないです!誰かと一緒にいれて嬉しいと感じる、それ以上に幸せになれることなんて、大切なものなんて…僕にはわかりません…っ」
今ここにいないはずなのに、なぜか目の前の男のひとを見れば見るほど、リョウジの顔がくっきりと頭に焼きついて離れない。
僕はもうたえきれなくて、両目からぼろぼろと涙がこぼれてしまう。リョウジが恋しくてたまらなかった。
大切な存在であるのに人も動物も関係のだということを、リョウジは僕に教えてくれたのだから。
(僕にとってリョウジは、)
もう、心の一部なんだ。
「…ありがとう。君の言いたいこと、俺にはちゃんと伝わってる」
「ご、ごめんなさい。僕、また泣いて…!うっ、ぅ、ごめんなさい…っ」
「よく泣くのは悪いことじゃないさ。泣きたいときは、思いっきり泣いたっていい…きみは、感受性が強すぎるんだ。心が素直な証さ。きみは優しすぎて、心がたくさんのことを感じすぎるんだよ」
穏やかな声色でそうささやきながら、男のひとはやさしい指つきで僕の涙をそうっとすくってくれた。
そのやさしさに触れて僕は、ほんのすこしだけかなしい気持ちがやわらいだような気がした。
「感情が豊かだと、それだけ多くの痛みだって感じるだろう。だけどそれはけっして弱いことなんかじゃないって、俺は思ってる。繊細な心と優しさを持ちあわせているからこそ、きみはその優しさで、誰かを幸せにできる力を…心のなかに秘めてるんだ。だから、そのままの…今のきみでいいんだよ…」
外は寒いというのに、このひとの指は、このひとのすべては…どうしてこんなにも、あたたかいのだろうか。
(このひとに触れられていると、なんだか気分が落ちついてくる。癒されるというか……どうして?)
*******
しばらくすると、僕が泣きやんだ様子をみはからったように、男のひとがさりげなくたずねてくる。
「気分は落ちついてきた?」
鼻水を勢いよくかんでから、僕は短く返事をした。
「…はい…」
それは嘘いつわりのない正直な気持ちだった。僕は、冷静さを取り戻していた。
思いきり涙を流したのと、それと―…
いま目の前にいる男のひとに不思議と心を許して胸の内を語ってしまったせいか、ほんとうに気分が落ちついていた。
結局のところ、あれやこれやで最後の最後まで、ずいぶんと励まされてしまったのかもしれない―、このひとに。
「俺、ほんとうによかったよ。君と話せて」
「いえ、僕のほうこそ…ありがとうございます。たくさん奢らせちゃったのになんにもお礼できなくて。今日一日、すごく楽しかったです。落ちこんでたけど、あなたのおかげで…ちょっと元気出てきました」
男のひとは僕の言葉を訊いたあと、わずかの間をおいて、
「…そっか、よかった。じゃあ、もう大丈夫だな」
と、言いながらくしゃりと微笑んだ。
そしてベンチから立ち上がり、
「俺、そろそろ帰らないといけないんだ」
と、言う。
僕は、はっとしてズボンのポケットの中から携帯を取りだし時間を確認する。
もう午後3時をまわっていた。それにミサトさんからの着信が7件も入っている。
早朝から家を飛びだしあちこち走り回ってリョウジを無我夢中で捜していたせいで、家にはまったく帰っていなかった。
クリスマスイブなのにリョウジを捜しに行ったまま行き先も告げずまったく連絡をよこさない僕を、ミサトさんはきっと心配で気が気じゃないだろう。
とにかくいったんミサトさんに連絡しなければと思い、僕は男のひとを見上げきちんと目を合わせた。
「あの、僕も家に帰らないといけないみたいです。今日はほんとうに……ほんとうに、ありがとうございました」
僕は、胸の奥からこみあげてくる感謝の気持ちを、せいいっぱい言葉にこめてお礼を言った。
ほんとうに今日このひとに会えてよかったと、心の底から思った。
男のひとはそれを訊くと、
「俺も、きみに話を訊いてもらえてうれしかった。ありがとな…じゃあ、また会おう」
と、嬉しそうにまた微笑みながらそう告げ、僕に背を向けてゆっくりと歩きだした。
立ち去りながら後ろ向きでひらひらと手を振る男のひとに、僕はつられて「じゃあ、また今度…」とこたえてしまう。
それから男のひとの姿が見えなくなるまで、僕はベンチに座りつづけた。
彼の姿を見届けたのち、僕はぼんやりする頭で「また今度」なんて言ってしまったのに、名前と連絡先を聞きそびれてしまったことに気づく。
「かっこよくて優しかったけど…なんだかちょっと、変わったひとだったなぁ」
小さく笑いながら僕はそう呟き空を見上げると、ふわふわと舞う柔らかな雪のひとかけらが、僕の頬に落ちて体温で溶けていった。
(あのひとは、僕に勇気をくれた…)
清澄な冬のつめたい空気を口から吸って軽く深呼吸すれば、その凛とした寒気に心が洗われるようだった。
そうしているうち、僕は、ようやくベンチから腰をあげる決心がつく。
『ありがとな…じゃあ、また会おう』
男のひとが別れ際に云ったそれはさよならをつげる挨拶だったのに、かなしい気持ちにならなかったのが不思議だった。
それがどうしてか、僕には分からなかった。分からなかったけれど。
これが最後ではないような予感がして、しょうがなかった。
どこの誰かも分からない名前も知らない彼に。
僕はなぜか、ふたたび逢えるような気がしていた…。
*******
その日の夕方。
僕がキッチンで夕飯の準備をしていると、玄関の外から犬の鳴くような声がした。
“まさか”と思い、反射的に料理をつくる手をとめた僕は、期待に膨らむ胸で玄関まで駆けつけドアノブを回す。
そして開いたドアのすぐ先、まるで何事もなかったかのように―…
リョウジがいい子にしてお座りをしていた。
「リョウジ!」
僕は叫びながら大急ぎでリビングにいるミサトさんに「リョウジが家に戻ってきました」と声をかけ、リョウジを家の中にいれる。
「ちょっと来てくださいミサトさんっ、リョウジが帰ってきましたよ、ほら!」
「なんですってぇ!?」
ミサトさんは飲みかけの紅茶のカップを落としそうになって慌ててテーブルにガチャンと置くと、リビングから玄関まで勢いよく走ってきた。
「…っこのバカ!!帰り道が分かっていながら今まで帰ってこないとはどういうことなの、どこぞのメスでもたぶらかしてたんじゃないでしょうね!?コイツッたら人騒がせにもほどがあるわよ、ちょっち私がお仕置きしてやるから覚悟しなさいリョウジー!」
リョウジのもとへやってきたミサトさんは怒りながらもよほど心配だったのか、半泣き状態でリョウジの身体をポカポカと叩いた。
「わぁっ、暴れないでミサトさん!リョウジがびっくりしてる…」
「だって、こんなどうしようもないバカにはこれぐらいしてやらないと気が済まないわよっ」
そうしてミサトさんはしばらく鼻息荒く怒り心頭だったけれど、やがて優しい表情になってゆき「リョウジおかえりなさい」と言った。
もうとっくにミサトさんは、リョウジを許しているようだった。
「はぁー、やっとこれで一安心ねぇ。リョウジどこも怪我してないみたいだし、今のところ被害届けもないからこれで一件落着ってとこかしら。あとから警察に迷子犬捜索願い取り下げの電話しておかないとね」
「ミサトさん…僕がうっかりしてたせいでたくさん迷惑かけちゃって、なんて謝ればいいか…」
「シンちゃん、もう終わったことは気にしなくていいの。今度から気をつければいいだけの話よ。クリスマスなのにシンちゃんが落ちこんでたら私だってかなしくなるんだから。シンちゃんとリョウジに何かもしものことがあったら、安心してビールも飲めやしないわ」
「はい…。ありがとうございますミサトさん」
「ふふっ、やっぱりシンちゃんの笑顔はとってもかわいいわよー?リョウジはきっとシンちゃんの笑顔が見たくて帰ってきたんでしょうね、私には分かるわ」
にこにこしながら嬉しそうにそう言い切るミサトさんに、僕は内心くすぐったくなる。
「えぇー…。ミサトさんのその根拠のない自信、どこからくるんですか?僕、よくわかりません」
「だって、シンちゃんってホントにかわいいんだから!もう、守ってあげたくなっちゃう…」
ミサトさんと話していると、それまで僕を見上げていたリョウジが僕の脚にすりすりと身体を寄せつけてくる。
僕は嬉しくなってフローリングの床に座り、ぎゅうっとリョウジの頭に抱きついた。
リョウジの大きな身体全体をわしゃわしゃと撫でれば、リョウジはちぎれんばかりに左右に尻尾を振って、喜んでいるのかいつものように僕の顔じゅうを舌でぺろぺろと舐めてくる。
犬というのは嬉しいとき、全身でそれを表現してくれる。単純のようで、でも全然そうじゃない、素直で賢くて可愛い生きものだ。
「リョウジ、僕ほんとに心配したんだっ。いったいどこに行ってたんだよ?ははっ、くすぐったいってばリョウジ!」
可愛くてあたたかくて優しい、大好きなリョウジが僕のもとへ帰ってきてくれた。
かけがえのない大切な存在と幸せと喜びを分かちあえること―――
リョウジが戻ってきてくれたこと。
それは僕にとって、これ以上ない、本当に素晴らしいクリスマスの贈りものになった。
「帰ってきてくれてありがとう。リョウジ、だいすきだよ…」
リョウジと目が合う。リョウジはとても温和な顔をしていた。
そんなリョウジの顔を僕はいとおしくなって両手でそっと包みこむ。
黒くて深い穏やかな瞳、なつかしい匂い、醸しだすやさしい空気。
どれもこれも、僕が大好きなリョウジそのものだ。
「だってお前は、僕の大切なリョウジなんだ。なにものにもかえられない家族なんだよ。…だからずっと、お前はここにいていいんだ」
僕は満ちたりた気持ちになりながら、それでいてうれし泣きしそうになりながらリョウジに向かってそうささやく。
すると、僕の頭の中でいきなり―――あの男のひとの声が、台詞が、リアルに蘇って再生された。
(俺はね…あの子を、心から愛してる。はじめて出会ったあの日からずっと。今も、これからも…あの子だけが俺の、世界のすべてだよ)
世界にたったひとつだけの存在で。
ここだけにある安らぎとあたたかさで僕を見守ってくれている―…これは、
「もしかして…リョウジだったの…」
でも、まさかそんな。
驚きのあまり、もうそれ以上なにも言葉が見つからなかった。
そんな僕を見てリョウジは、元気そうに、ワン、と一声鳴いた。
End.
2012.12.22 Merry X'mas you...
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