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 「あなたの愛情が、心に響かないの」


 彼女の吹っ切れた心情とは逆に、その台詞は俺の心にどこまでもわびしい響きをもって入りこんでくる。

 砂時計の小さな砂の粒が一筋の細やかな流れとなって時間をかけ、さらさらと静かに落ちていくように負の思いを相当溜めこんでいたであろう彼女は、自らの掌でその綺麗な頬を諌めるように叩いた。
止める暇もなくパンっと切れのいい音がしたあと、彼女自身の掌によって叩かれた左頬がわずかに赤く染まっていた。
そこはひりひりと痺れるような痛みが走っているに違いなかった。
彼女なりの精一杯の感情表現と俺への懺悔、餞別だったんだろう。
落胆、放擲 …あるいは不満。俺が不甲斐ないばかりにふたりのあいだに生まれた溝は、別れ話に発展するまで深いものになってしまったのだった。
 
「好きだって囁かれても、ほんとうか、建前なのか…わからなくなってしまった。ううん、あなたが私にそんな建前を口にするわけない。信じられなくなったのは私のほうよ」

 俯きがちに、目を真っ赤に腫らせて「終わりにしよう」と切り出してきたのは彼女のほうだ。
葛藤のなかで苦しんだうえに出した答えに反論の余地はなかった。
冷静に頷けたのは。俺も、彼女と同じ気持ちでその言葉を受け止めることができたからだ。

「できれば、そういうのはもっとはやくきみの口から訊きたかった。別れ際、なんかじゃなくて。きみはいい女だ。俺には勿体なかったかもな」
「そうじゃないの…!加持君はとても信用できる。すこしミステリアスなところもあるけど、誠実でいつだって人の心に歩み寄れる思いやりもあって、ユーモアもある、ただ格好いいだけじゃない素敵な男のひと。人間的にもとても魅力的。私の比なんかじゃないくらいに。だけど…あなたの持つ優しさは、わたしには合わない…受けとめきれないの」


 ―――俺の持つ優しさが合わない…?
予想だにしていなかった彼女の台詞に打ちのめされ、思考回路を働かせようとするのになにも言い返せず呆然としてしまう。


「加持君は…人を愛することを怖がってる。だから一定以上、私のなかに足を踏み入れようとしない。平気なフリをしてるようでも…あなたは隠してたつもりでしょうけど、そういうのわかる人にはわかっちゃうもの。どんなに私があなたを想っていても、これじゃただの一方通行よ。あなたの心の頑なな部分をほぐして愛して理解しようと、一生懸命歩み寄ったつもり…。あなたを愛していたから。けれどもう、限界だわ。やり直すのは無理よ。それにわたし…あなた以外に、好きな人ができてしまった。こんな中途半端な気持ちの女なんかと、あなたはもう付き合うべきじゃない」
「…!」
「先月にね、あるひとに告白された。そのひと、あなたとは違って不器用だし、身のこなしや周りへの気配り、性格もスマートってわけではないの。でも、とてもストレートよ。言葉も、行動も。ちょっと熱血漢っぽくてむさ苦しいところもあるけれど、あのひとのまっすぐで正直な愛情と性格に…私…惹かれたわ」

―――むさ苦しいほどの熱血漢。まっすぐで正直な愛情と性格。

(俺の立ち入る隙なんてねぇな)

そのなにもかもが、自分には足りないものばかりだ。
一端の男として情けないが俺には幸せにできるほどの技量がなかったというわけだ。
これくらいの制裁は受けて妥当だと心構えをしていた。
だからせめて、最後は…存分に彼女を応援して見送りたい―――。

「ありがとな。正直に話してくれて」
「ごめんなさい。ほんとうに、ごめんね…、ごめ…」
「待て待て、ストップ。もう謝んなよ。それがふたりにとって一番いい選択だって、お互い納得してんだ。そうだろ」
「うん、…」

しばらくの沈黙のあと、先に声を発したのは俺のほうだった。

「同情なんかよせよ?俺だって悪かったんだ。お前と付き合う前の生活に戻るだけさ」
「…巧みな話術で新たな美女に近づいたりして?」
「それも悪くない。でもいまのこれでしばらくは懲りそうだ」
「ふふっ、冗談よ。…あなたの幸せを願ってる」
「そっちこそ。幸せに、なれよ」

 ずるずると惰性で付き合いを引き延ばすよりかは。
これから先、別々の道を辿っていくほうがお互いのためにもいいに決まってる。
互いに惹かれあって愛情を確かめ合って、ふたりの未来を楽しく想像して、笑いあった日々。愛しあった仲。それもいつしか、絶妙なすれちがいから修復できない方向に進み、ある程度の段階を得ては、スムーズなほどに自然な流れで別々の道を歩もうとしている。
随分と明るくあっさりとした別れが訪れたものだと悟った。―――…フラれたのか、俺は。


「加持くんの存在を待っているひとは、私ではないって…気づいたの」


彼女は終焉を告げる残酷な女神のようにやさしく微笑みながらそう言った。


「ねぇ加持くん。四六時中、感情をうまくコントロールしようとする必要なんてないと思う。心の底から信用してるひとには、もっと自分の感情をまっすぐにぶつけるべきだわ」


 お見通しってワケか。きみは容赦ないな、最後まで…と微笑み返しながら答えた一方、的確で真っ当すぎる彼女の助言を受けとめようと思いつつ、心のどこかでなんとなく疎ましく感じている自分がいた。
 ―――俺の存在を待ってる人がいる?
四六時中、感情をうまくコントロールしようとする必要なんてない?
心の底から信用している人には、もっと自分の感情をまっすぐにぶつけるべき、…だって?


 第一の理解者だと思っていたひとの精一杯の本心からの吐露―――同情ではなく―――…それでさえわずかに疑りかかるこの隙のない性格に、嫌気が差した。





*******





 どこに行っても人、人、人。
洗練された断崖のように並ぶコンクリートジャングル。華麗にディスプレイされたショーウインドー。
無駄に一目を引く広告塔。ひしめきあう色とりどりの派手な雑居ビル。
24時間体制でパトカーが巡査する治安の悪い歓楽街。
横断歩道の白線の手前で待機中だった大勢の老若男女は信号が青に変わった途端、アンドロイドのようにすまし顔で、軽快に流れはじめた歩行音を察知するやいなや、狂ったように十字交差点を前進して個別の目的地へ行くため、すれ違う。
事実、次々に目移りしてしまうほど、飽きさせることのない人を呼び寄せる膨大な量のエネルギーと魅力が、あの街にはある。あまりにもなにもかもが揃い、移ろいやすく、そして、便利な。
そんな大都会の一角に居場所を設けていられることは、ある種の誇りでもあった。

 仕事人間。少し前まで、加持はそう呼ばれてもおかしくない部類だった。
その当時、会社の業績を上げたい一心だった加持はプライベートもそっちのけで企業の一大プロジェクトに携わり、身を粉にしてことごとく奔走していた。体力と精神力を消耗し、あらゆる状況に臨機応変し、ひたすら耐えた。
最初こそは四苦八苦しつつも、最終的にはどんな仕事でもそつなくこなし、邁進しながら。
土日祝日なんてないのが当たり前だった日常。並以上の月給を貰うためならと割り切り、肩書きが多くなるにつれて増えていったのは、膨大な仕事量だった。
無論、それに見合った給料が手にいれられるものだから達成感もあった。銀行の預金に振り込まれる金額が多いのに越したことはない。
 金。―――結局、金なくして暮らしていけない。だから誰もが必死になっている。
不満はない、充分すぎるほどの収入さえあれば―…と、自分に思いこませるだけの日々。
 でも、それ自体がおかしいとあるときを境に、疑問を抱くようになった。がむしゃらに働いたはいい。
が、毎日のふとした瞬間にどうしようもなくなにかが間違っているような、欠けてるような気がして同時に、懐が豊かになればなるほど会社に束縛されていく時間の流れにいつしか違和感を覚え、窮屈だと感じるようにもなって。外はもうすっかり暗くなっても残業で会社に残らなければならず、帰宅時間が日付変更後なんてこともザラだ。
ただ単に時間の融通がきかないから嫌でしかたない…のではなく。危機感、という名の本能的な警鐘のそれに近かった。
 慌ただしい毎日を過ごすあまり、日増しに狭ばっていく視野。なんとなくちっぽけな価値観でつくってしまったレール。その上をあてもなく歩んでいるうちに、“こんなものか”と諦めたように生きてきたのがその証拠だ。

 大切なものを掌で掴むには、有り余るほどの情報や物質に囲まれていればそのうち見つかるような気がしていた。でもそうじゃなかった。
そんなある日、会社のデスクの上に山積みされた書類を沈殿気味に眺めながら、突然それらすべてを鬱憤を晴らすようにシュレッダーに入れたくなった。そのときもう何年も欠落してた感情が音を立ててバサバサと積み重なっていく大量の本のように自分の真上にのしかかった。
都会の雑踏で生き残り溶け込むために自分を押し殺した分だけ胃のなかに重く蓄積する、消化不良を起こした感情。それに気付かないフリをして済むならまだ楽だっただろう。
外面的にはあたかも充実しているかのように見せかけて、実際、自分そのものは空っぽなのだと。
ストイック化した日常生活によって肝心な部分を見失っている恐ろしさを、加持はそのときはじめて自覚した。

 …いつからだ、必要なものとそうでないものを区別せずに生きるようになったのは―――?
忙しなさに撲殺され、このままでは…忘れてしまう。
立ち止まり、落ちついてじっくりと自分を振り返る機会すらも。

 そうこうして半年後、意を決して会社に辞表を提出した。
社長は最初は驚きながら「せっかく軌道に乗り出したのにどうしてこのタイミングなんだ」と怪訝な表情でしばらくのあいだ引き止めようとしたが、迷いのない加持を見てとうとう諦めたようだった。
 恋人とは別れてしまった。
当時付き合っていた彼女は、大手優良企業のキャリアウーマン。気が強くしっかりとした人だった。
仕事に対しての堅実さとプライドの高さ、その優秀な仕事ぶりに周囲が一目置くほど。彼女は人の上に立つことのできる人格だ。
だからなおさら、東京を離れて一緒に暮らさないか、などと頓狂な台詞がとうてい言えるわけもなく―――いや、言う気にはなれなかった、のほうが正しい。
そもそも、そんなふうに相手に言えるのはよほど悩んだ末に覚悟を固めて、のような場合だ。
相手の事情を考えた上で、それでも自分のこれからの人生に巻きこまれてくれる勇気は君にはあるか、そんな意思表示を―――結局、彼女にぶつけられなかった。
それが要因のひとつにもなって、次第に彼女とのあいだに距離が生まれた。ふたりの性格や意思の齟齬は時間が経過するにつれて深くなり、終いには惰性だけの関係に発展した。
自分自身の過ちに気づいて後悔したときにはすでに、彼女の心は別の男に攫われていた。
いずれにせよ、あのまま関係を持続させられるほどの愛着が、ふたりには残されてなかった。

 0地点から始めるのを決意した1年前の春、あまり多くない荷物をまとめて手早に手続きを済ませ、何年も居座ったマンションを後にした。
そうして生まれ故郷の東京を捨て去り新たな引っ越し先として選んだのが、以前に出張で何度か訪れたことのある、海辺沿いの田舎町。住居は幸運にも納得のいく物件―――海のすぐ近くの空家を紹介してもらえたおかげで、そこを借りて暮らしている。
現在は昔取得した資格を生かして小さな自動車整備工場で働き、まずまずの収入を得ている。前に勤めていた会社ほどの月給はなくとも、よほど散財しない限りは独り身で生活していく分には申し分ない金額だ。
私生活面はといえば、東京でひとり暮らししていた頃とさほど変わってはいない。自炊はそれなりにこなせるし、職場で気さくな同僚と上司に恵まれた影響でぽつぽつと知り合いもできはじめた。

 その傍ら、空いた時間や休日の趣味にしていたのがプランター園芸と、それともうひとつが(これもはじめのうちは暇つぶし程度だったが)写真撮影だ。
写真撮影―…とはいうもののプロだなんて大層な肩書きでもなく。
簡潔に言えばそう―――完全個人趣味のフリーカメラマンといったところか。



 そして、今日。

 時刻は午後6時半過ぎ。
やたら人気の多い週末の、国道沿いにあるファミレス。それが今夜の待ち合わせの場所だ。
モデルを引き受けてくれる少年が加持と和やかに打ち解けられるようにと、原田の提案でここに決定したのだが、がやがやと人工的な音ばかりする騒がしいこの空間を加持は正直あまり好きになれない。店に入った瞬間、あまり深くものを考えず原田に場所選びを任せてしまったことを少しだけ後悔した。
ファミレスの店内はありとあらゆる料理の混ざった匂いがたちこめ、それに加え、客が注文した料理皿や飲み物のグラスが出されたり下がったりする際のカチャカチャとした音で、いかにも話し合いの場には向いていない。
梅雨もとうに明けてさすがにクーラーは点いているものの、設定温度はまだ高めなのだろう。そのせいで余計に人の熱気を感じる。
向かい合ったテーブルの先、どこか所在なさげに俯いて座っている制服姿の少年の隣には、彼を連れてきてくれた後輩―――原田がいる。

「あいかわらず空調悪いな、この店」

メニュー表をパラパラとめくりながら愚痴を溢した原田に、加持は「それはそうとお前、もっとまともで落ちついた場所があっただろ」と切り返す。

「よりによって週末のファミレスなんか」
「賑やかでほどよく人がいるほうが物静かな空間よりは緊張しないかと…加持先輩だって俺の提案に同意してくれたでしょ」

 加持と少年と、仲介役の原田―…計3人が、とあるファミレスで会うことが決まったのは、原田にこの話を持ちかけてわずか2日後のことだ。あの日は深夜で、ベッドで気持ちよく寝ている加持の枕元に置いていた携帯が突然鳴り響いたので驚きと眠気と少しの苛立ちで目を開けた。暗闇のなか、眩しすぎる光を放つ携帯のディスプレイに映る着信者名には、後輩の『原田リクオ』の文字。
どこまでも不遠慮な奴だなと呆れながらも、無視することもできずに通話ボタンを押した。
原田の話によると、面接する予定の少年の都合のつく日をおおまかに把握したというので、その項を伝えるための内容だった。そこで加持と短い相談ををし、とんとん拍子で予定を組んで少年との顔合わせ―――面接をする日程と場所を決め、おおかたの予定を立て終えたころ、原田は紹介相手の少年の名前を教えてくれた。少年の名は―――…碇シンジ。
それからあっという間に日は過ぎてゆき、とうとう面接日がやってきたのだ。まさかこんなにもはやく写真モデルが見つかるとは思っていなかったので、その件に関しては原田に素直に礼を述べざるおえなかった。

「だからって普通あんな平日の真夜中に電話してくる奴があるか?…眠すぎてうっかり頷いちまったんだよ」

ほかに適当な場所も浮かばなかったからしかたなかった、などと原田の弁明は続いていたが、加持はそれに耳を傾けながらも、現に目の前にいる今日はじめて出会った少年の存在が気になっていた。

(…碇シンジ君、か)
 
 まず、そのルックス。全体的にバランスの整った、幼く優しそうで中性的な顔立ちでありながら、それでも男の子だとはっきりわかる。
すらっと通った鼻筋。うすい唇。澄んだ藍紫色の、くりりとしたおおきな瞳。長いまつ毛。
色白できめこまやかな肌。短いのにさらりとした柔らかそうな黒髪。華奢な身体つき―…ほそい手足、首筋。腰さえも。
さらに、雰囲気。誰かが守ってやらないと、こわれて消え去ってしまいそうなその儚さ。
なのに、けっして簡単にこちらには心を開いてくれなさそうな、まるでふれてはいけない小さな花のような―…

(って、男相手に小さな花っていう表現はおかしいだろ…)

―――歳はいくつだ?まだ中学生~高校生ってところか。しかし、顔つきはだいぶ幼い。
まったく、こんな子どこから引っ張ってきたんだか。
遠い知り合いか、または親戚…?にしては原田とは系統が違いすぎる。

「お待たせ致しました」

 加持の思考を遮るように、笑顔の店員が注文された3人分のアイスコーヒーを運んできた。
原田は率先してアイスコーヒーのグラスを受けとり、シンジと加持に「はい、どうぞ」と言って渡す。
店員が立ち去り、全員に飲み物が行き渡るのを確認すると、今度は加持とシンジを交互に見ながらさっそく仲介役らしくにこやかにシンジの紹介をし始めた。

「紹介しますよ加持先輩。この子が碇シンジ君。この町に住んでる子です」
「…あの、はじめまして。碇シンジです」
「はじめまして。俺、加持リョウジです。よろしく。原田から大体の説明は聞いてるだろうけど、写真モデルのバイトに興味を持ってもらえて嬉しいよ」
「あっ、こちらこそ…よろしくお願いします」
「ふっ…。はは、おもしろいな」
「?」
「態度が初々しくて、なんか新鮮」
「…そうですか?」

こちらに越してくるまでもうずっと何年もお堅い大人ばかりいる環境(大手企業なのだし当然といえば当然だが)にいたせいか、社会人慣れしてしまっている身としてはこういった10代中頃の年代の子と接するのはほんとうに久しぶりで、楽しくなってきた。
これじゃあまるで、世代の違いを目の当たりにして自分の若かりし頃を思い出し懐かしんだり関心したりするいい歳こいたオッサンみたいだな、と我ながら思う。

「個人的なバイトの面接なんだ、そんな堅苦しくならないで気を楽にしてくれよ。それとも周りの喧噪が気になって落ち着かない?原田と俺が勝手に決めちゃった場所だから、嫌ならいますぐほかの場所にでも移動しようか。シンジ君はどうしたい?」

なるべく爽やかな笑顔を心がけて呼びかけたのがよかったのか、緊張していたらしい少年はやっと加持と目を合わせたのだった。

「いえ、僕はどこだっていいんです。でも、原田さんは…」
「原田?こいつのことなら気にすんなよ。ここがいいと言いだした張本人だ」

空調が効いておらず暑いのと周囲がやたら人で混みあっているファミレス店内の状態に、さきほど不平不満を呟いていた原田が気分を害しているとでもシンジは思ったんだろうか。
シンジは「だけど…」と呟いて心配そうに隣に座っている原田のほうを見た。

「シンジ君ありがと。先輩の言う通りだよ。俺は騒がしいのなんて全然苦じゃないし気を遣ってくれなくていいから」

原田がそう言ってシンジの肩をぽんと叩くと、

「わかりました。それならいいんです」

と言ってシンジはほっと安心したように―…笑顔を見せるまでとはいかないものの、先程よりもいくらかは柔らかい表情を見せてくれた。

「すいません加持さん、話を中断させてしまって」
「あ、あぁ。それでな、撮影日は不定期で、ギャラは当日払い。もう一回確認するけど、そこんとこは大丈夫?」
「はい。承知してます」

 それからというもの、詳しいバイト内容などの話が進んでゆくにつれ、シンジも加持の説明に耳を傾けてながら納得してくれているようだった。事は順調に進んでいた。
―――にも、かかわらず。加持はさっきからどうしても気がかりでならないことがある。

(…やけに近いな、このふたり)

 思い違いだったらそれでもいい―…が、しかし。
加持が話しかけているあいだ、シンジは頻繁に原田のことを気にしているようで、時々意味ありげな視線で彼の顔をちらちらと覗っている。挙句、恥ずかしそうに微笑んだりもする。
まるで、彼氏と一緒にいれるのが嬉しくてしょうがない、といった女の子みたいに。それも1回や2回なんてものじゃない。
原田も原田で、シンジがそんな態度を取るたびに―――彼の細い腰に、さりげなく腕なんて回したりして、にっこりとシンジに笑いかける。
―――こういうとき人の直感はいやでも当たるから面倒だ…とか、そういう以前に。誰だってこのふたりを見れば納得するはず。

…完全に、ふたりの世界が出来上がっている。

原田とシンジ、そのふたりの世界に加持という異物が意味もなく紛れ込んでるような気分だった。
それに、どうしても思い当たる節があるから余計に面倒くさいのだ。だがここで訊かなかったらそれはそれで不自然な気もするので、若干勇気を出して原田に問いつめてみることにした。

「原田。ちょっと前に電話で話してくれた、あれ。年下の可愛い恋人がいるって言ってたのってまさか」
「ええ、あれシンジ君のことですよ。いま、3ヶ月目ですよ」

 さらっととんでもない発言をした原田。
加持が心のなかで念慮してたことの辻褄がパズルのように合わさり、あっさり納得できたにせよ―…。
なぜかショックで、ちゃんと聞こえていたにもかかわらず「…からかってるのか?」と聞き返してしまう。

―――そもそも、若すぎるだろ…いくらなんでも。
しかも、こんな多感な時期であろう男の子が。原田の恋人?もし仮に―…シンジ君が通報でもしたら、お前の人生完全に終わるぞ…、って俺が人の事情をとやかく言える権利はないが。
どういう経緯でそうなった?どれくらいお互いを想いあってる?先に告白したのはどっちだ?
年齢差はあっても、シンジ君はまだれっきとした未成年で…あ、でも相思相愛なら犯罪ってわけでもない…のか…?聞きたいことが山ほどある。

 ところが、そんな加持の逡巡をものともせずに原田はあっけらかんとした態度を崩さず、

「嘘でこんなの言いませんって。なー、シンジ君?」

と今度はシンジに話を振った。
加持の思いとは裏腹に、シンジは微笑ましいことこの上ないようなピュアな表情で原田に頷いた。それから今度は加持に向かってはにかみつつ、

「…はい。僕、原田さんと付き合ってます」

などと臆面もなく言ってのけた。男のひとしか好きになれないんです…僕、と。小声気味につけ足して。

「ごめんなさい…。加持さんびっくりしたでしょ?引いたのなら、はっきりそうおっしゃってくださってもかまいませんから。でも、こういうのは最初のうちにきちんと伝えておかなくちゃいけないと思って」
「…あ、いや。びっくりはしたけど、引きはしないよ。だけど、ほんとにいいのか。きみは、その…原田の恋人だろ。いくらバイトで割り切った関係だとしても自分の彼氏以外の男とふたりきりにならなきゃいけない機会が増えるんだぞ?」

そこがにわかに信じられなくてシンジに問いただしたが、「ええ。大丈夫です、加持さんは心配しないでください」とやんわり流されてしまう。

(…後輩の恋人だといわれても……)

 ―――何がどうなってるっていうんだ。
撮影モデルを希望してる男の子はゲイで…。だけど問題はそこじゃなく。
原田とシンジが付き合っているにいても、どうして原田がわざわざ自分の恋人にほかの男とふたりきりにさせるようなバイトを紹介できるのか?
もし、俺が原田の立場だったら―――たとえ同性の恋人だったとしても…その愛しい恋人が、自分以外の別の若い男と、ほんの数時間でもたったふたりきりで過ごすだなんて気が休まらないに決まってる。

 現在の絶妙でちぐはぐな展開が腑に落ちず、原田に目線を送る。原田は加持の視線を受け止め、素早く空気を読んだのか、口をつけていたグラスを静かに置いた。

「シンジ君、原田とふたりで話がしたい。ほんの5分くらいで済むからここで待っててくれ」
「…?どうぞ」

 シンジが両諾したのを合図に。加持は原田の返事も待たず、「原田、行くぞ」と言い放って唐突に席を立つ。促された原田はシンジに「食べたいものあったら注文しておいていいよ」と言い残し、テーブルを後にした。
加持の赴いた先は、ファミレス内の男子トイレだった。トイレ全体は隅々まで小ぎれいに清掃管理が行き届いていたが、フルーツ系の芳香剤のきつい匂いが鼻につく。
ドアが閉まるなり、丁寧に磨かれて汚れひとつない鏡の前で加持は我慢できずに面と向かって原田に言い放った。

「あの子は雇えない」
「…!シンジ君じゃ不満でした?かなりいい線いってる気がしたのに」
「あのな、そういう問題じゃない。お前の彼氏としての立場が俺にはどうも理解できない。原田…ほんとうにこれで納得してるのか?シンジ君も」
「納得してなきゃわざわざ先輩に会わせてませんって。堅苦しく考えないでくださいよー、それは俺らふたりの問題。なにも心配しなくても大丈夫っス。そもそもこれがもし素性の知れないような男だったなら俺だってシンジ君を引き留めますよ、そりゃあもう。先輩の意見も、もっともです。でも、雇い主は加持先輩ですよ?先輩だから、俺は安心してシンジ君を見守っていられる。シンジ君なりの考えがあって、俺も彼氏としてシンジ君のやりたいことにあれこれ口出して束縛したくないんです」
「…おい、それは嫌味か。シンジ君にとっては俺も十分素性の知れない奴だとは思うんだが」
「シンジ君との出会いは、浜辺の清掃ボランティアのときでした。その清掃ボランティアは年に何回か開催されるんで前にも何度か参加したことがあったんですけど、その日は参加人数が少ないうえにゴミの量が割と多くて。俺が草むしりしてたら、ちょっと離れた場所で、一生懸命に重たそうな大きなゴミ袋をふたつも担いでる男の子がいたから、手伝おうかって声かけたのがはじまり。最初はどことなく無表情で話しかけづらいような雰囲気の子だったんですけど、しばらく喋ってたら繊細で優しい感じの子だったから妙に惹かれるものがあって…メアド交換したんです。それから不思議と懐かれちゃったんですよね…何度か会ったりするうちに、自然と付き合うようになってたっていうか」
「自然とって…」
「この話はもういいじゃないですか。って…、そんな怖い顔して睨まないでくださいよ!先輩ってば変に真面目なところあるんだから」

 テーブルへ戻ると、シンジがアイスコーヒーにクリープとシロップを入れてストローでくるくるとかき混ぜている最中だった。

「ごめん、待たせた」

加持はそう詫びるとふたたびソファーに座る。

「いえ…」
「ところでシンジ君。俺、昔から原田のこと知ってるけど…こいつけっこうモテるぞー?しっかり繋いどかないとすぐフラフラどっかいくような奴だからなぁ」

ついさきほどのトイレでの原田の発言に反撃して冷やかすかのように、加持がにやりと笑って言った。

「それ加持先輩が言えます!?先輩こそ浮ついた噂が後を絶たなかったでしょっ。それに女の人だってよく口説いてたし」
「けどお前ほど誰彼かまわず付き合ってたわけじゃないぜ。色情狂だった頃のお前と一緒にされるのは勘弁な」
「先輩、辛辣っス…」
「シンジ君さ、原田の奴こんなだから困りごとも尽きないんじゃないか。俺でよかったらいくらでも話聞くよ」

シンジが不憫でたまらなくなり、原田との会話を無理矢理中断させてから再び彼のほうへ向き合ってみたものの。
そのときすでにシンジの顔が微かにこわばっていたことに気づけなかったのを、加持は後になって後悔した。

「………原田さんは、そんなひとじゃない。加持さんに、わかるもんか…」
「…え、」
「原田さんはそんなひとじゃないです…!だってあんなに…っ、あんなに愛してるって言ってくれてたのに、僕を見放すわけないですよっ!!」

 ガタンッ、と勢いよく席を立って、大声で原田を庇うシンジ。
先程までの控えめな態度だったシンジの物凄い剣幕に、加持は仰天して手元のアイスコーヒーのグラスの中身を危うく溢しそうになる。
なにより、シンジの必死な―――形相。このとき、加持ははじめてシンジのまっすぐな瞳を見た。それは怒っているというよりも、

(―――かなしみ…?)

 気安く干渉してはいけないと思わせるような、一方的な感情を向けられて―――為す術もなく唖然としてしまう。
前後左右隣のテーブルにいた客達の喋り声が途絶え、いまや周囲の視線が一斉にこのテーブルに集まっていた。レジ付近にいた従業員が心配そうにこちらを眺めている。
うしろの席の若いカップルが小声で「え、なになに喧嘩?修羅場?ヤバくね?」などと興奮気味に囁いているのさえも筒抜けだ。
緊迫した空気を打破するように原田が慌ててシンジをなだめた。すると、はっと我に返ったらしいシンジは自分のしでかしたことに気づいたのか、ばつが悪そうに目を伏せてゆっくりと席についた。
それから数分が経過し、3人がそれ以上の揉め事へと発展しない様子を察知したらしい周りの客達は、まるで何事もなかったかのようにまたそれぞれの注文や食事、お喋りを再開させたのであった。

「あの…っ、加持さん。ひどいこと言ってしまって…すいませんでした。いまの、忘れてください」

落ちこんだトーンの声で謝罪の言葉を述べたシンジの背中を、原田がやさしくさすっている。

「いや。俺のほうこそすまない。ちょっとふざけすぎた」

 そうしたあとも気まずい空気はぬぐえず、とくに会話が弾むこともなく面接は終わった。
ファミレスの駐車場で加持と原田は、シンジと別れた。車で送ってもよかったが、シンジに「今日は自転車で来ましたから。ほら、あそこに」と言われ丁重に断られてしまったのだった。
 茫洋とした夏の薄紫色の夕空にぽつぽつと現れはじめた星を眺めながら、残されたふたりは車に寄りかかり、しばらく一服していた。
煙草のうす白い暑苦しそうな煙が湿気の多い空気のなかをあてもなく悠長にゆるゆると漂っては消えてゆく。

「シンジ君、自転車で帰っていったけどここから家まで何分くらいかかんだよ」
「自転車だったら20分くらいですかね」

原田とたわいない言葉をいくつか交わした気がするも、内容はほとんど右から左へ流れ、頭には入ってこなかった。その原因には気づいている―――…碇シンジの、意味深で、狼狽したような激昂。
シンジには忘れてくださいと言われたが、あんなの印象的すぎてすぐに忘れられるわけがない。

―――愛してるって言ってくれてた…、って言ってたよな。
なんだか妙に引っかかる。彼の、あの一言。

(言ってくれてたって…。しかも、過去形)

「なぁ、原田。ちょっと聞きたいんだが」
「ん、どうかしました?」

加持は煙草の煙を長く吐き出し、原田に問いただす。

「…俺の思い込みならそれに越したことはないけど。…お前、シンジ君に相当ストレス与えてないか。さっきのあれは何なんだ」

 自分の知らないところで原田はシンジに、きちんと彼氏らしく振る舞っているのだろうか。

(こいつのことだ、シンジに変な誤解でもさせてないといいが…)

 シンジと原田。一見、仲良さげには見えるけれども、普段のふたりはどうなのか。
でもさすがにそこまで訊けはしなかった。

(…さっきからなに勝手に詮索してんだ、俺は。出しゃばる必要もねえだろ)

 言及したいのをこらえ―――ごめん、言いすぎたと謝ろうとしてそれが喉元まで出かけた途端、隣にいる原田は喫っていた煙草の煙をふぅと吐く。
そして半ばひとりごとのように、やや口を尖らせてぼそりと小言を洩らした。

「ストレスなんか与えてるつもりないですよ。ただちょっと、シンジ君って俺が思ってた以上に繊細で一途で……愛情深いっていうか。ときどきそれが、俺には重いかなー…、なんて…」
「………は?」
「なんつって。やだなぁ冗談ですよ先輩、冗談」
「お前なぁ。そんなんで大丈夫か」

 まるで巧妙にはぐらかしたかのような原田の態度に加持はどこかしら違和感を覚えながらも、碇シンジを個人撮影の素人モデルとして雇うことに決めた。







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