きっかけは、些細な思いつきで後輩にかけた一本の電話だった。
東京を離れて一年目の夏。
加持は自室の窓際に立って右手で固定電話の子機を持ち、電話帳の検索機能から特定の電話番号を探していた。とある人物と通話するために。
電話帳から「原田リクオ」の名前に辿りつくのにそう時間はかからなかった。そもそも、本来なら携帯で連絡すればすむものの、原田の携帯番号を聞いていなかったせいで、面倒だったがわざわざ固定電話から掛ける必要があった。
ダイヤルボタンを押す。それから子機を右耳にわずかにあて、相手が出るのを待った。
もし仮に原田が電話に出なかったとしてもまた他を当たればいい、ほどの軽い気持ちで。
「日曜って言ったって、この時間帯じゃあ外出してるかもな…」
呼び出し音が鳴っているあいだに、窓の外の景色を窺う。きめ細かな網戸越しに見える風景は、ごくありふれた、物静かな港だ。
すぐ近くの入り江では墨汁をつけた筆先のような黒褐色の海鵜が数匹、青々と光る凪いだ波の上で陽気に泳ぎ、たまに海中へ潜ったり海面へ浮上したりして魚を獲って食べていた。
イカ漁が盛んで特産物でもあるこの町では通常、集魚灯の明かりによって夜に漁が行われる。そのため昼間の港には漁師の姿も見あたらず、ほとんど人の気配を感じさせない。人を乗せる役目を忘れてしまったかのようにのんびりと立ち並ぶ漁船の多くは、まだ太陽が高い位置にある時間帯、濁った船底が波に揺られてぷかぷかと不安定そうに浮き沈みを繰り返す。
そのずっと先につづくどっしりとした青い海の表面は初夏の太陽の光をさんさんと受け、鮮明に輝いていた。
眼下に広がる穏やかな海―…港と入り江と、途方もなく彼方にある水平線を眺めるたび、自分がかつて大都会に住んでいたのを忘れそうになる。
同じ日本でも、東京とここではまるで時間の流れが違うように思えてくる。
(…ここ数日の快晴で洗濯物がはやく乾いてくれて助かるよ)
換気をしよう。
そう思い固定電話の子機を持っていないもう一方の手で網戸に手をかけ横に開けようとして動かすと、ぎぎぎ、と歯切れの悪い、錆が擦れてつっかかるような音がした。
「潮風で相当やられてるぞ、こりゃあ…」
加持が片手で力強く網戸を開けている最中にも、規則正しく流れる呼び出し音が耳元で鳴っていた。
そろそろ新しいのに替えなきゃな―…と考えているうちに、長らくつづいていた手持ちの受話器の呼び出し音がようやくプツンと途切れ、相手が電話に出たのが分かった。
『…もしもし、』
電話口から聞こえてきた相手の、こちらの様子を探るような声に、まったくの骨折り損ではなかったと思いほっとする。
「よぉ、原田。ご無沙汰。俺、加持。なかなか出ないから切ろうかと思ってたところだ」
『あ!加持先輩!?お久しぶりです。どうですか?そっちのほうは』
その喋りかたが学生時代の頃からちっとも変わらずどこか軽率さを感じさせる響きを持っていたので、加持は少し口許を緩ませた。
「変わりないさ。仕事もぼちぼちやってる。…あのさ、いま時間いいか?都合が悪いようならまた折り返しかける。それほど急ぎなわけでもないから」
『いえいえそんな!全然構いませんって。ヒマしてたところですから。独り暮らししてるとほんっと話し相手に困りますね、俺の場合。独り暮らしが苦痛っていうんじゃなくて、静かな空間にずっと居続けるのがちょっと耐えられないんですよ…でもいまさら実家に帰って一から職探しすんのも手間がかかってめんどくさいですし、さすがに俺ぐらいの歳にもなると寂しくなるたびにいちいち誰かに電話かけるのも気が引けるじゃないですか。笑える話、ここ数年ほど前からテレビやゲームに語りかけるのなんて日常茶飯事で。独り言増えた?って同年代の友達にも笑われる始末っスよ。喋りたくて喋りたくて…、言葉を発してないとストレス溜まっちゃいますよ。っていっても何かやることがあるときは特に気にならないんです、でも今みたいに…』
「おーい…、ちょっと原田ストップ。せめて相槌ぐらいさせてくれ」
『…!すいません俺、つい…』
話の途中ではあったが、無理矢理に原田の言葉を遮った。
いかんせん、こうでもしなければ当分終わらないであろう爆弾トークに、いつまでもだらだらと付き合っていてはキリがない。
「休日はたいてい家にいるのか、お前」
ほどほどに軌道修正しなければ、原田の話はどこまでも拡散してしまう。
『え?別にそうでもないですよ。彼女いますし』
ついさっきまで不平不満を言っていたのに、今度はやけにあっさりと幸福宣言ときた。
「…はいはい。のろけは壁に向かって喋っとけ」
『か、壁!?でも壁は何も答えてくれないからつまんないですよっ』
「独り言には慣れてんだろぉー?」
『ちぇっ、最初から聞く気なんてないでしょホントは!俺の彼女、可愛いのに』
このまま無駄話を続けていても問題はない―…しかし、いま重要なのはそこではない。
気を取り直してから、「そのうちゆっくりお前の可愛い彼女の魅力を訊いてやるから」と釘を刺し、雑談もほどほどに早々と本題に入る。
「拗ねんなよ、今度ちゃんと訊いてやるから…。それはそうと、」
加持は電話口で、高校時代からもう十数年の付き合いになる二個下の後輩―――原田リクオにある用件を持ちかけた。
―――こんな話いきなり持ち出して悪いと思ってる、でもとりあえず話だけでも最後まで聞いてくれ。
実は俺、新しい写真撮影用の素人モデル捜してんだよ、一ヶ月前まで雇ってた子が辞めちゃってな。できれば次は少年を対象としたいんだ。なぁ原田…お前、誰かいいアテないか?知り合いとかで。
条件としては、個人撮影でもOKしてくれる子。あ、ちなみに分かってくれてるだろうけど身内で教育関係者がいるのは頼むから勘弁な。こっちとしては、十分な報酬も渡すつもりだ。…急な話だし、無理に協力しろとは言わない。
…まぁ、頭の隅に留めておいてくれる程度でも俺は全然かまわないよ。
『素人モデルの募集、ですか』
「あぁ」
なんの腐れ縁があってか、この原田リクオという男は加持がここに引っ越してきた時にはすでにこの町に住んでいた。
加持と原田は都内の同校出身だ。高校卒業後、社会人になってからも何度か顔を合わせたり飲みに行ったことがある。良くも悪くも友人以上親友未満、というふうな適当な距離を保てる飲み仲間、のような関係だった。
三年前、転勤でどこか地方に飛ばされたとほかの仲間づてに聞きそれ以来あまり連絡を取っていなかったのだが、まさか偶然にもこんな小さな町で再会するとは思ってもみなかった加持は、駅前のコンビニでばったり鉢合わせたときはずいぶん驚いたものだ。
あえて原田に電話をかけたのは、加持がアマチュアのカメラマンをしているのを知っていたのと(しかし、それはとりあえず表向きだ。本当はもっと複雑な理由がある。が、原田にはまだ話していないだけだ)昔からの馴染みという単純な理由からだ。
相談するにはもってこいの人物、で一番に頭に浮かんだのがこの原田リクオという後輩だった。
『ふぅん、今度は少年ですか…。オンナノコじゃなくて?』
「対象は女の子だけに限定しないほうが新鮮だろ」
『そりゃそうですけど…加持先輩も、なかなか人に言えないコトしてますねぇ』
「ヌード撮影・風俗的行為・撮影データの第3者への外部公開流出・転売はもちろん無しで、商業目的でもない。撮影可能範囲や希望条件の詳細はモデルの子が納得してくれるようになるべくじっくり相談して決めたいと思ってる」
『だとしても…!いけないと分かってても、俺なら相手が可愛かったら手ェ出したくなっちゃうかも…。若いとなおさら悶々しちゃいます、絶対』
ずいぶんと遠慮ない言葉を投げかけてくるこの後輩は、まるで加持が危ない道に進みだすのを期待してるような言いようだ。
「…カメラマン何だと思ってんだ。それにお前、彼女いんだろ」
「先輩、てきびしいなぁ」
いかにも軽はずみな原田の口舌に溜息が出る。
だが、それでも加持には撮り続けたいと―――いや、撮らなければいけないという、一種の強迫衝動にも似た思いがあった。
『いや、でも実際そういうコトしちゃう人ってかなりいるって聞きますけど?加持先輩もいずれどうなるか分かりませんよー?』
「…はは、怖いこと言ってくれんなよ。お前みたいに色情魔じゃないぞ俺は」
『またまた、そんな余裕ぶっちゃって。加持先輩だって男なんだからこの先どうなるか…あ、そういや先輩さ、前に何人か女の子も撮ってましたよね。あのときは確か大学生の子達でしたっけ?』
原田の言う通り、この町に引っ越してきてから加持は素人モデルの女の子をふたり、雇ったことがある。
「そうだな。でもふたりともすぐ辞めちゃったよ。彼氏ができたからこういうの続けるのはちょっとマズいって頭下げられて。もっともな理由さ」
『そもそも、先輩は何でこんなことしてるんですか?言いかたが悪いですけど、これ見方を変えれば児童ポ○ノ禁止法案やら青○年育成条例を推奨すべきだとか児童性愛反対なんて小うるさく喚いてる一部の人達やお偉いさん方からしたら限りなくグレーに近い行為じゃないですか。あの人たちがどんなに勘繰りあって騒いで抑圧したってちっとも無くなりゃしないのは目に見えてんのに…。とはいっても今の時代、ネット上でも現実でもアブノーマルなことしてる人はわんさかいて登録制のサイトや店なんかまるっきり無法地帯だし、供給する側も需要する側もすごい数だったりするじゃないですか。男女関係なく。だから別に俺は加持先輩がしてることに否定はしませんよ。未成年の写真モデルのアルバイトにしても、周りがどうこう言おうと被写体がしっかり同意してる上でなら、変に規制するのもどうかと思いますし…って、あれ…?加持先輩、何の話してましたっけ…』
「…お喋りが長くて話をややこしくしたのはお前だろ」
『えーと…。あ、そうだった。どうしてフリーでカメラやってるのかって聞きたかったんです。単なる趣味…にしては先輩らしくないなぁと思って。昔はカメラなんて全然やってなかったですよね?』
「……。色々と事情があんだよ、俺にも」
すこしばかりの沈黙が流れる。この後輩の反応の遅さからして、どうも見込みはなそうな気がした。
―――ダメならはやいとこ諦めるか。
さっさと謝って次を当たろうと考え、加持が口を開きかけたそのとき、
『…んー。ねぇ、先輩。俺、今すぐにでも紹介できる子、ひとりなら知ってます』
ぴったりの人材がいるからぜひ紹介しますよ、と原田に嬉々として云われた。…意外だった。
『一対一の個人撮影っていうバイト内容に偏見のない子ですし、ちょっとシャイなところがあるけど、ルックスも悪くないんです。しかもお小遣い欲しがってるからちょうどいいと思うんですよ。先輩がよかったら、今すぐにでも連絡取りましょうか?』
「あぁ、よろしく頼むよ。でも今いきなり連絡したりしてその子の迷惑にならないのか」
『心配いりません。その子も俺と同じで休日はたいてい暇してますから』
そこで一旦電話を切った。
返事を待っているあいだ、原田は“紹介相手”に手早く連絡を取ったようで、加持の家の固定電話が鳴るのにそう時間はかからなかった。
『もしもし、先輩?電話、繋がりましたよ。興味があるって』
「…!ホントか」
なんと、相手の子が面接時は原田の同伴つきでなら「会ってみてもいい」と言ってくれたらしい。
うまくいきすぎだと思う反面、この機を逃したら次のチャンスはいつ訪れるか分からない。それなら、多少はスピーディーな展開だとしても流れに身をまかせるよりほかはないだろう。
しかも、原田の口ぶりからして―…その相手とは、時と場合関係なく気軽に連絡を取れるほどの仲なのか?と想像さえもした。
不確かな根拠だとも言い切れないが、これでも友人の多い奴だ。原田が見込んだ相手なら、なんとなく信用できるような…頭の片隅に、そんな安寧感があった。
さっそくとんとん拍子で予定を組んで顔合わせする日程と場所を決め、おおかたの予定を立て終えたころ、原田は紹介相手の少年の名前を教えてくれた。
少年の名は―――…碇シンジ。
「碇シンジ君、か」
『はい。加持先輩に会わせるの、すごく楽しみだなぁ』
「世話になるな、原田。助かった」
『やめてくださいよ先輩、改まっちゃって。これくらいどうってことないです。それにきっと先輩なら、分かってくれる…気がする』
「…、分かるって?」
訊き返すと、原田は打てば響くように、
『とにかく。あの子に会ってみれば、分かりますから…』
と、神妙な声色でこたえた。
その意味を、加持は遠からず知ることになる。
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