「まず、苗を植える2週間前には土壌作りをしておく。1坪あたりに300グラムの石灰を入れ、20センチ以上の深さまで耕すんだ。肥料は1坪あたり堆肥5キロ、油粕と化成肥料を各300グラムを元肥としてたっぷりと混ぜ込む。つまり、基本中の基本は土壌づくりだよ。土壌環境を整えずして甘いスイカは育たない。だから俺も土壌づくりは徹底的にしたもんだ、どうせ栽培すんなら中途半端な美味しさじゃ面白くないからな。スイカはもともと高温、少雨、水はけの良い砂質地を好む野菜でさ。暑さに強く、日照り続き、水不足と言われるような猛暑の年ほどおいしい実をつける。そして連作を避け、有機肥料を十分に与える。苗は保温して生長を促すんだ。1番花が卵大になったら、米ぬか、油かす、魚かすか、または乾燥鶏ふんを各2つかみ施し、軽く中耕、土寄せをしなくちゃいけない。適切に追肥をすることで糖度が上がるんだよ。そうして2番果が握りこぶし大になったら畑一面に敷き藁をして、つるが絡み合わないように誘引するんだ…って、シンジ君、訊いてる?」
「えっ、…ええ?」
野菜のこととなれば割と饒舌な加持が熱弁をふるってくれるのにもかかわらず、こうも一気に喋られると全体がいまいち把握できずにシンジはつい曖昧な返事をしてしまう。それに加えて、この暑さ。
足元の土から湯気が立ち昇っているのではないかと錯覚してしまいそうになる。
スイカ畑を隔てたコンクリート道路の遠く先のほうが、暑さの影響でゆらゆらと朧げに蜃気楼が揺らぐのが目の端に映った。
「…すいません加持さん、ぼくあんまり詳しくないから一気に呑みこめなくて…、もう一度最初からお願いします」
「おっと、すまない。ちっと長すぎたか。要するにさ―――…」
長い説明を聞いているあいだ、見晴らしのいい遠景の丘の近くの雑木林から割れるようなセミ達の哭く声がこちらにまで響き、なまぬるい風の流れが空気を震わすようなセミの大合唱をスイカ畑にまでダイレクトに伝えてくる。
スイカの段々畑から見上げる青空には綿あめに似たもこもことした入道雲がくっきりと高くそびえ立ち、真っ青な空を統制するように真夏の昼の太陽が浮かび上がり鋭い光線となっては、燦々と地上を照らしつけている。
今日は想像していた以上の、絵に描いたような真夏日だった。
はっきり言って、夏の昼間の畑作業はとても危険だ。早朝ならまだしも、7時を過ぎると太陽からの刺さるような熱がじりじりと強さを増し、午後にもなれば尋常ではない気温になる。
麦わら帽子を目深に被ってもこのうだるような暑さを凌げるはずもなく、七分袖やズボンの内側は蒸されるような熱気が籠もっていた。シンジは額や背中、首筋、膝裏、軍手を嵌めた掌、至るところから汗がじわりと滲んでいくのを感じた。うっかりしていると全身から水分が絞りとられて皮膚から蒸発しそうだ。熱中症や脱水にならないよう、なるべくこまめに水分補給はしているつもりだった。
それでも、たった10分前にお茶を飲んだばかりなのに、もう喉が干上がってしまったようにカラカラだ。
「今日は玉返しをしよう」
「玉返し?」
「玉返しってのはな、果実が大きくなったら10日からだいたい14日ごとに、果実を横にしたり裏返すように置き直して形を整えて皮の色むらをなくすことさ。俺が手本を見せるから、やってみる?」
「あ、はい」
すぐ真横でシンジと同じく麦わら帽子を被り、作業着姿に真っ白なタオルを首に掛けた加持は汗を滴らせるも、爽やかな生き生きとした表情で今日の作業内容について、分かりやすく説明してくれる。
「これをさ、こういうふうにして…」
(加持さんの趣味…ますます拍車がかかってる気がする)
本業の合間を縫って、マンションのベランダでのプランター園芸(きゅうり、ミニトマト、枝豆、小松菜、雪白体菜、ラディッシュ、苺)の枠を飛び越え、今度は新たに土地を借り、今年の夏はスイカ栽培に没頭している。
畑の観察日誌もつけたりと、よりおいしい野菜を育てるために日々の研究を怠らない。
(ただの趣味だよと本人は軽く笑ってるけど。いつか、会社を辞めて「俺は農夫になるよ」なんて言い出しそうでなんとなく冷や冷やする…)
スイカの玉返しの説明がようやく一通り終わったころ、次に作業に取りかかった。なにせシンジにとってはじめての玉返しだったので、とりあえず最初は加持の隣にいて指南を受けながら見様見真似でやってみることにした。
しばらくして慣れてくると、加持は首筋に伝う汗をタオルで軽く拭いながら上手だと褒めてくれた。
ふたりでの農作業が、シンジにはたのしかった。加持のベランダに置いてあるいくつものプランターの野菜たちも、今ふたりでいるスイカ畑も、とても好きだ。手伝った分だけ、それ相応のバイト代も貰っている。
でも、さすがにこの炎天下はキツいものがあった。ただただ、ものすごく暑い。暑くて暑くてたまらない。果たしてどこまで脳が機能してくれるだろうか。農作業は、ひたすら根気と体力との勝負だった。視界が歪み、足元の丸いスイカさえもぐにゃぐにゃして見える。
(あつい…あついよー…変になりそう……頭のなかが…ぐるぐる、ぐるぐる…ぐるぐるぐるぐると、まわって―――…、)
「………、だいたい加持さんて普段からカッコつけすぎなんだよな。肩書は優秀なビジネスマンと見せかけて私生活ではどこか胡散臭いし…未だに謎だらけだし、達観した物言いで人生の説教みたいなのしてくるし、ルーズなのか几帳面なのかハッキリしないし、たまにオヤジくさいし、女のひとにはだらしないし、人のことからかってるときの自信たっぷり感のある雰囲気や顔とか、すごいムカつく…スイカ男…」
「おーいシンジ君…心の声、全部口に出てるぞ…。なぁ、やっぱり様子が変だ。もう帰ったほうが…」
「やれます、最後まで付き合います」
「…やけに頑固だな」
「帰りません…ぼくぜったいに帰りませんよ…」
「わかったわかった。ただし、無理すんなよ?しかしそうは言っても今日は一段と暑いからシンジ君じゃなくてもへばりそうになるな…。これが終わったら早めに切り上げよう」
ぼんやりしたままのシンジが静かにこくんと頷くのを見て、加持が、
「今朝収穫したミニトマトときゅうり、そこの川の水に浸けて冷やしてんだ。採れたてだから美味いぞ。あとでふたりで食べるか」
と言ってシンジに見せる表情は陽気で屈託がなく、顔のところどころがかすかにうっすらとした土で汚れていた。
「せっかく夏野菜作ったっていつまでもサラダみたいに生のままで食べるわけにはいかない。だからこそ、それを美味しく調理できる者がいてこそさらに旨さが増すってもんだ…シンジ君、今朝穫れた俺の野菜、また貰ってくれないか?」
「………。」
「?…、あれ、また訊いてねーのかぁ?ま、いっか…」
(わぁーーーーー!!もう加持さん可愛い!!普段はあんな余裕かましてるのに―――…あぁ、畑作業してるときの加持さんってすごく可愛い…っ!!!!ぼくはいったいどうすれば…っ)
いまだって、だいぶ成長したスイカの表面を一玉ずつ軽く拳でコンコン叩いて状態を確かめながら「ん、これはまだ早いかな?もっと甘くなれよ~」なんて我が子をを見守るようにうれしそうに笑って独り言を喋っている。
少年時代に戻っているかのように快活な、飾り気のない姿の素のままの彼が、そこにいた。農作業をしているときの加持は普段の倍、感情豊かな顔つきで自分に話しかけてくれる。
(加持さん、いい歳した大人がそんなの反則だよ…!!)
「シンジ君、相当暑さにやられてるな。顔真っ赤だ…。やっぱり、やめとけって」
「…っへっ!?え、あ…っこれは…その、か、加持さんは知らなくていいんですっ!いいからあっち向いててください!!」
「あっち向けって…、なんだよー、いきなり。畑作業中に反抗期炸裂しなくたっていいだろぉ」
ひそかに悶絶していたのを悟られたくなくてつい、きつい言いかたをしてしまったのがいけなかったのか、加持は少しだけふてくされたような顔になる。
はっとして謝ろうとしたときにはもうすでに、彼は自分の作業に戻っていた。
気づかれない程度に、隣の存在の様子を、幾度か垣間見てみれば。
農作業に取り組んでいるときの―――今はスイカ相手に、並々ならぬ真剣な眼差しで黙々と手を動かすその横顔に―――…働く男の逞しさってこういうものなのかな?などと、シンジは感心してしまう。
(はぁ…、加持さんかっこいい…っ。今日の畑仕事が終わったら枝豆茹でてビール注いであげますっ…!だからぼくも頑張らなくちゃ。この暑さでも逃げちゃ駄目だ…逃げちゃ駄目だ…逃げちゃ駄目だ…っ!)
―――てこでも動くもんか。と、シンジは頑なに誓った。
そのうえ、引き下がれない、逃げれない理由がもうひとつある。なぜなら―――…
チャリンチャリン、チリリリリンッ。
「!」
と、それはいきなりやってきた。こっちに注目しろ、とでも知らしめんばかりに唐突に自転車のずいぶん大きなベル音がスイカ畑にまで届き、それまですっかり長閑だった畑の空気を破壊しながらこちらへ近づいてくる。
シンジと加持は言葉も交わさず反射的にその音のするほうへ顔を向けていた。
かねてからシンジが心配していた出来事が、いよいよ現実になったのだった。
「しっあわせはぁ~、歩いてこない~♪だ~から歩いてゆくんだね~♪一日一歩、三日で三歩、三歩すすんで二歩さがる~♪人生はワンツウパンチィ♪」
朗らかで能天気な歌声で口ずさまれる昔懐かし昭和の歌謡曲とともに登場したのは、まるで嵐のような訪問者。
彼女の登場はなぜかいつもその場の空気を破壊し、賑やかにさせる力があった。
(言わんこっちゃない!ほら来たやっぱり来たじゃないか、この子…!!)
「365歩のマーチか…あいつの絶妙な選曲の基準、何だと思う?」
小声の加持に意見を求められるが、シンジはどう答えていいのか分からずに首を傾げる。
マリはスイカ畑の付近にある砂利道の脇に素早く自転車を停め、鍵をかけると、大きく手を振りながら元気よく畑のなかを駆けてきた。
「そこのふたりィ、こーんにーちはーーー!こんな日にまで畑仕事なんて精が出るじゃんっ。ご苦労さ~んっ!」
真希波・マリ・イラストリアス、襲来。
加持の話によれば、知り合いの子どもだと話は聞いているが、詳細はよく知らない。
茶髪のおさげに蒼い瞳、いつも赤縁眼鏡をかけた少女だ。さばさばとした明るくて呑気な、物怖じしない性格の持ち主で、シンジが何度か接した印象からみるとかなりの楽天家気質だった。
歳は直接聞いたことはない。それでもたぶん、容姿や雰囲気からしてシンジと同い年か、ひとつ上くらいだろう。
マリはたまにふと思いついたように加持のところへ遊びに来ることが度々あり、このスイカ畑の存在も知っている。シンジもこれまで、何度かマリに遭遇してきた。だからといって、それほど気の置ける仲でもなく、会ったら多少の雑談をする程度だった。
マリを嫌いなわけではなかったが、しかしマリがここまでして加持に会いに来る理由がいまいち把握できずにいた。
ただの知り合いの子どもだとしても、こう頻繁に遊びに来るものなのだろうか?
アスカやミサトに鈍感だと酸っぱく言われるシンジでも、さすがに勘繰らずにはいられなかった。
(油断もスキもあったもんじゃない。ぼくが見張らなくちゃ…このひとが加持さんになにかしでかす前に、断固阻止せねば!)
落胆する暇もなく警戒心を働かせて身構えてしまうシンジの気持ちをよそに、マリは平然と笑いかけてくる。
「こんにちは、マリさん…」
「ワンコ君、お手伝い頑張ってるねぇ」
「いえ…、それほどでも」
切り替えの早いマリは今度は加持に話を振った。
「スイカの調子はどう」
「今のところ予定通りさ。しかしお前、どうしたんだ急に」
「気まぐれだよん」
ぶっきらぼうに訊いた加持に対して、当の本人はけろっとした態度で一も二もなく短すぎる返答をする。
「どうせまたそんなことだろーと思ったよ…」
毎回毎回飽きもせず、といったふうに呆れた顔をした加持はしゃがみこむと、何事もなかったかのように再びスイカの玉返しの作業を再開させた。
「よくこんなの育てられるねー。私だったら飽きちゃいそう」
「はいはい、興味ないならほっとけっての」
淡々と答える加持に、それでもマリは質問をつづけた。
「…途中でやめたくならない?」
「いいや」
加持とマリ、ふたりのくだけた会話をそばでしばらく聞いていたシンジは表面上、普段通りの自分を装っていても、内心では落ち着かなかった。気まずさを感じてしまい、変に空気を読んでしまって話に割って入りこめずに遠慮したまま、ただなんとなくふたりの話に曖昧な相槌を打つことしかできない。
マリが幼いころから、加持はしばしば彼女の面倒をみてやっていたという。
実際、このふたりのやり取りを目にして分かったことがある。加持は自由奔放なマリをぞんざいに扱いながらも、けっしてはねつけたりはせず―…寛容に受け入れてつきあいつづけている。いつだってそうだった。
彼は、たとえ相手が誰であろうと、受け止めるだけの包容力を持ちあわせているのだ。
シンジの胸のなかに、暗い感情がわだかまってゆく。
(加持さんと、仲良くしないで…)
そうはっきりと言葉にできる勇気が自分にあったら、と考える。それでもきっと、自分には無理だろう。
男であるシンジが、女であるマリに対して、加持と仲良くしないでほしいと牽制するのは本来ならおかしいことなのだ。
(…間違ってるのは、ぼくのほうなんだから)
自分がここにいれば、ふたりの邪魔をしているような気がしてならなかった。
ついさっきまで馴れ馴れしい態度で加持に接するマリの行動を見張ってさりげなく抑制しようと意気込んでいたのに、ここまできて急に罪悪感を覚えて弱気になってしまう自分の小心さにほとほと嫌気が差してくる。
「あの、…ぼく、あっちがわのスイカの玉返ししてきますから、何かあったらまた呼んでくださいね」
…とだけさりげなく言い残し、加持が呼びとめたのにもかかわらずその場から離れた。
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