捕まえて欲しいのに逃げ回るし自分を罠に嵌めるのが得意
時にはそれが魅力的なのさ
今日だけはかけひき忘れてベルを鳴らすよ
通りすぎる車のヘッドライトが、目を細めたくなるほどの眩しさで部屋のなかの右から左へと横切っていく。
このホテルの部屋に取りつけてあるガラス張りの窓は全体の縦幅がやけに広く、外の景色や天候の状態、時間帯による明るさの変化が部屋にもたらす影響が大きい。光の当たり具合によっては陰と陽がくっきりと映し出されるような視界は、長く目を開けているとそのうち失明してしまいそうな、死を仄めかす牢屋に似た眩惑な空間に見えた。私は、つい数分前まで自分が置かれていた状況について冷静に考えていた。
10歳以上も歳の離れた年下の男の子-…しかもまだ義務教育も終えてない学生と、セックスをしてしまった。
しかも、これがはじめての夜じゃない。渾沌とした現代にありがちな、身体だけの関係性だった。一方的な想いにひどく痛い気持ちになるのは自分だけで、この子はほかの形で幸せというものを持っている。誰かの心のなかに。
「また変なこと考えてるでしょ」
その声の持ち主はいつだって、光と影、どちらにも属せないところにいる。
「変なことはいつだって考えてるよ。考えない日なんてない」
「…そろそろ行きますね。アキさん、めんどくさくても夕飯はきちんと作って食べなきゃ栄養不足になっちゃいますよ?睡眠もしっかりとらないとダメですからね」
名残惜しい別れ際、几帳面な君に表情の読みとれない顔でありがたい忠告をされ、その口調になぜか居心地の悪さを覚えた。
「ほんとに帰っちゃうの?まだゆっくりすればいいじゃない」
帰り支度を整えた君はベッド横の床に置いてあった通学用鞄をたぐりよせると、肩にかけた。
「いえ、ゆっくり、ってわけにもいかなくて…。8時過ぎちゃいましたし。2時間オーバーとなるとさすがにまずいですから」
そして何事もなかったかのようにドアへ向かうその華奢な背中をしばらくぼうっと眺めたのち、はっと我に返った私はベッドを降り、のろのろと歩いて少年のあとに着いていった。
思い出をなくすのがこわくて無意識に夢を追いかけてしまう子どものように。
「しっかりしてるわねぇシンジ君は。私なんかより、精神年齢が大人だったりして」
「え………そんなふうに、見えますか?」
とても信じられないという面持ちで君は首を傾ける。
私は曖昧に笑ってうん、と言った。
「買いかぶりすぎですよ。小さいころからずっと、なるべく周りに迷惑かけないようにって…ひとりでもちゃんとやっていけるように、自分のことは自分でしなきゃって思い続けてるのはあります…でも、全然うまく立ち振る舞えません」
「ふ~ん。でも実際色々なことが一通りこなせて要領はいいほうでしょ?弱気になるなんてもったいないわ」
礼儀をわきまえてるところ、最優先事項を決めて行動するところ、規則正しい生活習慣が身についてるところ。
14歳のときの蕪雑だった私にないものをきちんと自分の内に吸収できているからたいしたものだ。
「別に、要領いいわけじゃなくて…アキさんにはそう見えてるかもしれないですけど…、自信なんて、ないんです。これっぽちも」
「シンジ君…」
「ぼくのずるくてわがままな部分を、アキさんが知らないだけ…」
―――それはつまり、ほかの誰かさんには見せてるってことを肯定してるのよね―…。
私の知らない、踏みこめない君の愛情指定領域を。
が、もうすでに伝えるべき言葉も尽きてしまい、ただ「うん、シンジ君もね。また待ってるから」としかこたえられなかった。
玄関先のドアの前で、君を見送るためひらひらと手を振って前を向く。
でも無理矢理そうしたってひねくれた考えや行動は相変わらずなもので、誤魔化しきれるでもなく―――生きかたはとことん後ろ向きだった。小心者で、天邪鬼。
後ろ向きでも何が何でも前を向かなきゃという気持ちになるのはもしかすると嫌われてひとりになりたくないがための防衛本能、もしくは、苦肉の策。
「時間遅くなっちゃったね。車で送ってあげるよ、急いでるんでしょ?…それに、その…シンジ君、いま制服着てるからホテルから出るときひとりじゃ不安だわ」
「ここのホテルのフロントスタッフ案外緩いみたいだから心配ないですよ。第一この街自体、とっくにモラルが低下…というより崩壊してますからね…」
「………。」
「ありがとうございます、アキさん。ぼくひとりで帰れますから。お気持ちはうれしいですけど、今日は歩いて帰りたい気分なんです…ごめんなさい」
ごめんなさい、と言ってかなしそうな儚い笑みを浮かべた少年は、その瞳には私を映していても心のなかではきっとほかの誰かのことで胸が張り裂けそうになっているはず。
期待するのは禁物だった。その"ごめんなさい"と切ない微笑みに込められた感情は、けっして私に向けられているわけではないのだから。
「それじゃあ…失礼、します」
バタン、とドアが閉まるのと同時に、脱力感でその場にへたりこむ。
こんな淋しい風情の街の片隅では。人ひとりの生きる範囲はあまりにも限られている―――そんななかで、自分はこれからも君を………ナンセンスなそれがあとどのくらい続くのかはまるで想像もできないけれど―…そう思い、私はうすら笑いをうかべた。
実際、誰もがろくでもないものや汚い感情をいくつか身の内に潜ませていて、そういうものによって支えられ、原動力に変えて生きてるんだろう。
人種も容姿も性格も生活も趣味も様々な人たちが。乱雑さと小汚さと無秩序とが漂う、狭く息苦しい雑踏のなかで、銘々別れて、ひしめきあいながら、よりそいながらこの世界は色んなひとがいるからこそ成り立っていられる。
(みんな、裏じゃ何やってるか全然わからないや…私自身もまた、然り。か…)
私はいつか遠い過去に見た民放のドキュメンタリー番組で顔も思い出せないような誰かが言っていた言葉を脳裏で反芻させた。
『この世界は、愛が足りなさすぎるんですよ』
**********
私が住居としている安家賃のアパートの一角にある日突然引っ越してきた中学生の少年。
わずか14歳ながらも部屋を借りてひとり暮らしをするにはあまりにも若すぎる新しい住人だと思った。
その事柄は、ひどくあじけない日々を過ごして真新しいニュースにも飢えていた私の興味を掻き立てるにはじゅうぶんで、素性の知れない子どもの情報をいち早く入手したくていてもたってもいられず、どうして14歳なんて歳でそんな暮らしをしようとするんでしょうね、と陰でこっそり大家さんに訊いてみたことがある。
まだ君についてほとんど何も知らなかった頃だ。大家さんは、
『両親と親戚がワケありらしくてね。本人がひとり暮らしを望んでるそうだよ。詳しくは知らないけどさ…とは言っても家賃は父親が毎月払ってくれるみたいだし、あの子が自分の口からこんなことになった経緯を喋る機会がない限りはあたしゃ余計な詮索はしちゃいけないような気がしてるんだ。だからアンタもあれやこれや聞きすぎないようにしといておくれよ。こんな安アパートでも選んでくれた大事な入居者なんだ、気分を害されちゃ困るんだ。あ、でもほどほどに気にかけていてくれると助かるね。何てったってまだまだあの若さだし子どもみたいなもんだからさ、あたしもできる限りのことはする。だからアンタも弟がひとりできたと思って時々は面倒を見てやってちょうだい、頼むから』
…と言っていたのを憶えている。断る理由も見つからなかったので、彼女の願いどおりその言葉に従った。
平日は普通に会社に出勤して仕事を終えてその後はこれといった寄り道もせず早々と帰宅し、休日は特にどこかに出かけるわけでもなく家でテレビを見たり読書をしたりして毎日をただ平凡に過ごしている私の、ちょっとした暇つぶしの材料にはちょうどいいかな、なんて思っていた。
出会った当時は心にぶ厚い壁を張り巡らせてるみたいに堅固にスルーされ、君は人を寄せつけたがらないような、自ら人間関係をつくりあげて発展させていくことに対してどこか拒絶してるような、―…いいえちがう、むしろ傷つけるくらいならひとりでいたほうがいい、という類の、そんな雰囲気を漂わせていた。
ひょっとして、過去にとてもつらいことや、いやな経験をしたのかな…。
家族と親戚が君に与えた環境のせいで、まだ力もなく自分ひとりでは生きられなかった子どもの君はたくさんたくさん、傷ついてきたのかもしれない。
だいたい人の性格なんてのは―――親からの遺伝子は多かれ少なかれあっても、それよりかは生まれ育ってきた環境と、周囲にどれだけ多く愛情を注がれてきたか、そしていままで築いてきた人間関係が大いに影響してくるのだと私は信じている。
―――碇シンジ君…。
君をしばらく観察しているうちに、ここのアパートの大家は意外とめんどくさい役回りを押しつけてきたなぁと億劫な気分にもなった。けれどそれも、最初のうちだけで。
…もしも、この子の心の窓をいくらか開けて、優しい光を降りそそいであげて。
愛情ある態度で接した末に、飼いならすことができたのなら…それはそれでおもしろそうね、と考えた。
何度も笑顔で声をかけて積極的に、なおかつしつこくない程度に気遣ってこちらから優しく手を差し伸べれば君の態度は徐々に変化していった。
君が私にくれた言葉、そのひとつひとつを叮嚀に思い起こした。
『お疲れさまですアキさん、遅くまでお仕事大変ですね。あの…突然お邪魔してすいません、こんなことして迷惑かも、ですけど。ぼく、夕飯のおかず作ったんです。もし残り物でもよかったらこれ、召し上がってください。お口に合うか分かりませんが…』
『アキさん。英語得意って言ってましたよね?よかったらこの問題だけ、教えていただけませんか…?さっきからずっと何回も考えてるんですけど、どうしてもここの問4の日本語訳が腑に落ちなくて…』
『わぁっ!?な、何してるんですかアキさん…っ、そんな格好でいきなりぼくの部屋までくるのやめてくださいって前にも言ったじゃないですか!もっと露出の少ない服を着てくださいっ』
『こんなくだらない悩み、訊いてくれてありがとうございました。ぼく、アキさんにすごく…救われてる部分があるんです。引越し先のアパートの住人にあなたみたいないい人がいてくれて、正直、すごく…ほっとしてます』
―――君の存在は、いままで平坦な人生を歩んできた私にとって―…特殊なものであったと、自信をもって答えられる。ある意味、未知のはびこる新世界に入りこんだ気分よ。
関わってゆくにつれ言葉に表せない気持ちが育っていくのを抑えきれず、君の潜在的な魅力に気づいて、魅了されていった。一日の大半が君のことを考える時間に費やされ、同じ空間にいて、いったん君の姿を確認すれば声をかけられるまでその姿をじいっと追ってしまう。優柔不断で脆い部分もあるけど、君はやさしくて、家庭的で…仲を深めれば深めるほどに、とても親身に相手に寄り添ってくれようとする。
顔立ちは女の子のようだと言われても違和感はない。でも、たまにふと垣間見せる引き締まったシリアスな表情なんかは…あぁ、やっぱりちゃんと男の子なんだなと思える。
かわいい後輩、もしくは弟のような、とにかく放っておけない年下の男の子。
私は君を拒絶したりしない。けっして。
居場所をあげたい。ひとりぼっちのときの、先が見えず誰にも理解されていないような、まるで自分だけがこの世界の外側にはみでてしまったような思いは痛いほど共感できる。私だってそんな時期があったし、今だってしょっちゅう不安定なる。けれども…君を見ていると。どうでもよくなる。こんなちっぽけな心のわだかまり、君の繊細さに比べれば。
そばにいてほしかったらいくらでもそばにいてあげるし、孤独も、さみしさも、つらい過去も。君が包み隠さず話したいと思える日がきたのなら、ぜんぶ訊いてあげたい。
だけど、私はまだそのとき知らなかった。
この子が抱えてる信じがたい秘密を。
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