※『モザイク』のアフターストーリー
誰もいない森閑とした空間。がらんと廃れた建物内の空気は、どこか疲れきっている。
こういった掩蔽的な廃墟にかぎって―…使われてもないくせに、取り壊されもせずそのまま放置されているのだから、土地の無駄遣いだなと俺は思う。
だだっぴろい建物内の東側には、やけに大きすぎるファンが重々しい存在感を放ちながら取りつけられ、無為な音を立てて回転していた。ここは、無機質という言葉がぴったりだ。
「ここまで、か…」
日本政府とネルフとゼーレとの3つの間でさ迷い続けてきた結果がこの有様だが、これまで積み上げてきたものに後悔なんて微塵もしてなかった。
暗い過去と、セカンドインパクトに囚われて生きてきた日々。それも今日で終わる。
今まで危ない橋を渡り続けてきた以上、最期もロクな死に方をしないであろうことくらい想像はしていた。これでじきに俺は死ぬ…それ自体は自分の立場上、前々から覚悟していたのだから、抵抗なく受け入れられた。葛城をひどく悲しませるはめになったけれど…真実はもう彼女の心に託してある。彼女ならこの先もきっと、大丈夫だ。
やるべきことはやった。もうやり残したことは何もない。
真実を掴むという目的を果たす―…それこそが、俺が生きた証だから。
どっちみち最近は生きていても死んでいても同じような暮らしぶりだったのだし、おかげで最後の大仕事も割と冷静に、滞りなくこなすことができた。淡々と、驚くほど手際よく。…でも、
「もう…疲れた…」
ほとほと疲れてしまった、そんな毎日は。信念に生きる日々はもうこりごりだ。
仕事も人間関係も、色んな人間に気を配って、色んな顔をして。
これが世間一般でいう、世渡り上手ってやつなんだろう。
俺は…いつだって自分を演じようと必死だった。器用な性格だとしても、そうでもしないと自分自身を保てないような気がした。
たぶん、こわかったんだと思う。防衛心を働かせていないときの、取り繕ってない本当の自分を誰かに知られることが。
しかし落ち着いて考えてみれば、そんなの瑣末なだけだ―――俺は目的を優先するあまり、自分の幸せの多くを犠牲にして、心までも擦り減らしてしまった。
あとどのくらい心臓はもつだろうか。
仰向けの体勢で、もう起き上がれることはないであろう俺の身体からは生ぬるい紅い血が絶え間なく湧き出てはどくどくと流れつづけ、つめたく乾いてざらざらとした粗いセメントの上を染めていった。
鉄くさい血の匂いがする。
こんなにも出血しているのに痛みはまったく感じず、即死しなかったのが不思議なくらいだ。
もしかしたら、わざとこういうふうに仕向けられたのかもしれない。じわじわとくるしみと罪を感じて逝けるように、と。
「無駄なのにな」
古ぼけたうす暗い天井を遠目に見ながら、どうせならもっと煙草を喫っておけばよかったと、俺はすこしだけ惜しむ。
せめて死に際にあと1本だけ…一服したいと思うのに、もうそれだけのことをする力さえも残ってはいない。
呼吸をするたび喉がからからと水分を失くして干上がっていく気がするのは、おそらくこの建物内の埃っぽい空気が肺を巡っているからだろう。
それに比べ、あの畑の空気は。透き通っていてこのうえなくおいしかった。
ジオフロントの一角といえど、あの畑はとても気持ちのいい場所だった。
平穏な、俺の農園。四方を緑に囲まれひらけている、こうばしいほどの土の匂いで満たされている場所。
たとえその場にいなくともくっきりと、今ここにそれが存在するかのように思い出せる。みずみずしくくせのあるスイカの匂いも。
しかしながら、こんなふうにただひとりで、ひっそりとしたところで死ねるのならそれもまた本望だった。
死。それがたったいま、笑ってしまいたいくらい間近にやってきている。ほんのすぐそこまで。
ほどなく俺はそれを目一杯味わうんだろう。命が消える瞬間の、満ち足りる気持ちを。
死は、子どものころ想像していたとてつもなくおそろしい深甚なそれとはだいぶ違っているものだと、今となってははっきりと言える。
俺が死んだあと、死体はどうなるんだろうか。まぁ、そんなことはどうでもいい。
すべてがあと数分も経たず終わる。やっとあのしがらみから解放される。いっそ安心さえした。
ほんとうにそんな瞬間がくるのだと思うと緊張がほどけて心が軽くなったような、うれしいような、今までになく楽な気持ちだ―…
そう考えていると突然、目の端に何かがぼんやりと映ったような気がして―…最初は気のせいだと思ったが、やはり違和感を覚えた。
「………?」
なんだろうよくわからない。でも、そこにはやはり何かが立っていた。
自分以外、もう誰もいないはずの建物内に。
頭はだいぶ朦朧として目も霞みがかってきたが、俺の身体の右のほうに―…何かがいるような気配を、かすかに感じる。
身体は徐々に冷えてきているはずなのに。俺の右側のほうだけなんとなく、ほんのりとあたたかいような―――…これは、
そしてすぐに分かった。それが何なのか。だって、俺はこれをよく知ってる。
あの子なんだ、と俺は直接目で確認するまでに至らなくとも―――身体じゅうでそれを感じていた。
間違えるわけがなかった。あの子の醸しだす気配。透明な雰囲気。やわらかなぬくもり。
俺はきっとおかしくなってきてるんだ。
もしかすると今、心が不安定な状態でとらえどころのない妄想をしているのかもしれない。
どうしようもない期待をするのは愚かだと、気に留めまいとした。
だがそんな妄想にしてはやけにリアルではっきりしすぎている。
いや、…ちがう…おかしくなんてなってない。おかしくなってなんかない。おかしくなってなんかない。
忘れられるわけがないんだこのぬくもりを。俺はこのぬくもりをほんとうに愛してた。心から。
疑う必要性すらないと、俺はすでに確信していた。はやく見たい。君の姿を。
そう思い、俺はわずかに首を右横へと傾ける。すると―…
「加持さん…」
見上げたと同時に。すぐ頭の上から、耳慣れた愛くるしい声が降ってきた。
目をこらすとそこには、制服を着て立っている、黒髪の少年がひとり。
ほら、やっぱり―――…間違ってなんかなかったじゃないか。
藍紫色のきれいな双眸が、俺をじいっと見下ろしている―…その目尻にわずかにかなしげな微笑みをたたえながら。
それは確かにあどけない子供のものなのに、眺めているとどこか胸が締めつけられるようにせつなくなる。
すこしも変わってないシンジの微笑みかたは、あの頃の―…俺のなかの記憶のままだ。
ずっとずっと網膜に焼きついて離れなかった、いとおしい存在。なつかしい姿。
シンジとのいくつもの思い出がおしよせて、俺はその心地よさにかつてないほどのめまいを覚える。
「戻ってきてくれたのか…」
たぶん今この瞬間、きっと俺は彼のことを魅入ったように見つめている。
「シンジ君…あいたかったよ」
幸福だ、と俺は思う。諦めていたのに…もう二度と叶わないと。
それなのにまさか、こんなときに再びこうして幸福に逢えるだなんて、信じられない。
これほど心底感動したのは、ひさしぶりだった。
(待ってたんだ…)
いく日もいく日も、どんなに待ち望んだことだろう―…あの日からいつも君ばかりを、ひたすらに。
「ほんとうにあいたかった」
再び繰り返し言うと、シンジも幸せそうに涙がこぼれそうな瞳を揺らがせ、こくりと頷いてみせてくれる。
「…加持さんが、望んでくれたから 」
そんなシンジの肯定の返事が嘘みたいうれしくて、彼に伝えたい想いがたくさんあるのにこんなときにかぎっていい台詞が思い浮かばない―…言葉の力でシンジを喜ばせるのは慣れているし、自信もあるのに。けれども、今の俺たちにそんなものは必要ない気がした。
やがてシンジは力なくだらんと床に倒れている俺の身体に近づき、耳元のあたりでゆっくりとしゃがみこんで片膝をつくと―…何も言わぬまま、愛情を込めるみたいにそっと、俺の頬に手をあててくれた。
ぬくもりのある、繊細な掌で。
俺はとうとう我慢できなくなった。そうしてかろうじて残っていた力をすべて振り絞り、自分の血だらけの腕でシンジの身体をぐっと引き寄せてはそのまま抱きとめた。
こわれてしまわぬよう、めいっぱい、やさしく。
俺の願いそのものだった。これこそが。
「俺たち、これでまた…いっしょにいられる」
けっして、消え去った儚い夢なんかじゃなかった。シンジはここにいる。
これが現実でなかったら、いったい何だというのだろう。
一日だって忘れはしなかった、いつかの夜の約束。
切り離そうと思っても、捨てられなかったあの頃の感情も。
シンジとともに、すべてが戻ってきてくれた気がした。
End.
2013.03.26
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