※現代パラレル
同僚に飲みに誘われたが、丁寧に断った。とある事業の山場を乗り越えて疲れていた。
夜の繁華街の喧騒に充てられ、居酒屋を梯子する気力はなかった。
平穏な夜。自分の家が、いちばんいい。
キャリアから解放された憩いの場で、加持が酔酒にチョイスしたのは珍しくジン・トニックとマイタイだ。
傍にはすでに開栓したマイタイの小瓶が転がっている。フルーツを凝縮させたような甘みのある、普段の俺なら絶対飲まないタイプのトロピカルカクテルであるマイタイ。
脳髄まで柔らかく包みこむようなホワイトラムの甘い香りは新鮮だった。気が向いたときにたしなむには申し分ない酒。
グラスを傾け、今夜の2瓶目であるジン・トニックを新たに注ぎたす。無色透明の液体で満たされていくグラスは、今日一日の充足感を体現するかのようにたっぷりとした質量を感じさせる。
なにしろ機嫌がよかったので―――リビングのソファーに深く腰掛けてのんべんだらりとくつろぎながら、ジン・トニックをぐいぐい飲んだ。
爽快だった。一杯目を飲み干し、空になったグラスを置く。悠々自適な、ほろ酔い気分。
近くのテーブルにいて厚みのある天体図鑑を眺めるのに集中力をいかんなく発揮していたシンジに、こっちへおいで、と呼びかけて手招きをする。
「趣味も根を詰めると能率があがらないぞ」
と、つけ足して。
だが、実際にはシンジが天体図鑑を開いてからまだそう時間が経っていないのは明白だった。
シンジは加持の顔を見るなり天体図鑑にしおりを挟み、ぱたりと閉じて、椅子から立ち上がった。
これといってわけを訊ねるでもなく、無垢な表情のままこちらへ歩み寄ってくる。
「ここ、座れよ」
そう言って、膝の上を指さす。シンジとはよくしている、ありふれた他愛ないスキンシップのひとつ。
シンジはそれの意味をすぐさま理解すると、またぁ?と言いたげに訝しそうな目をするも、しぶしぶソファーの上に手をついた。
「大人のおたのしみ中にいったい何の用です?」
少し皮肉交じりに眉間を寄せるシンジに口許が緩んだ。お気に入りの天体図鑑の鑑賞中、横槍を入れられたのがすこし不服だったらしい。
真正面から膝の上に、ひょいと乗りかかられる。お酒の匂いがいつもとちがう、とシンジが柔らかな声で洩らした。
それから思いのほか近づかれると深い位置で跨られ、両手を俺の肩に置くと、ちょこりと座った。
すぐにでも抱きあえるような体勢。まるで対面座………まぁ、いまはふたりとも服を着ているのだから言うのはよそう。
それはさておき下手するとこっちがうっかり反応したら、シンジにはそれが伝わってしまう。
とは言うものの、ほどよく軽い体重が心地かったのでそのままにしておいた。
しばらくの沈黙。少年の細い腰に軽く手を回し、さっそく本題を切り出す。
「名前、呼んで」
いつか実践してみたいと考えていたことだ。
その先に繋げる言葉を説明するのは躊躇いがあったが、シンジならはねのけずに受容してくれるんじゃないか―――、と。
「…なまえ?」
意表を突かれたようにシンジがぱちぱちと瞬きをする。
「俺はさ、シンジくんを名前で呼んでる。なのにきみは俺を苗字でしか呼んでくれない。これってフェアじゃないだろ」
微笑みながら打ち明けると、シンジは俯いて居心地が悪そうに遠慮がちな様子で、
「なんていうか…加持さんの周辺のひとって、ほとんど加持さんのこと苗字呼びしてるじゃないですか。アスカだってそうだし、ミサトさんでさえも」
そんな理由を語った。
「リッちゃんにはときどき、リョウちゃんだなんて呼ばれてるぜ」
おどけたふうににやりと笑う加持に、シンジはぷぅと頬を膨らませてそっぽを向いた。
「リツコさんは同級生だからでしょ。逆に訊きますけど、ミサトさんとはあんまりそういうのなかったんですよね」
「あいつとはお互いなんて呼ぶだとかは、とくにこだわらなかった」
「…加持さんのなかでの基準は?」
首をひねって、シンジが訊き返してくる。
返答に迷った。よく考えてみれば案外、曖昧模糊だ。
こだわらなかった、といっても、葛城とはなぜ苗字だったんだろうか。
大人特有の、壁?遠慮?羞恥心?虚栄心?距離感?
…お互い口にはしなかったが、どれも違う気がしたし、あてはまる表現が、うまくみつけられなかった。
ただ、避けていたのかもしれない。…避けていた?なにを。原因は―――。
葛城とは自然に触れずにいた話題でも、シンジとは避けずにはいられない気がしていた。
後回しにしてしまえば、もしかしたらこれからもあやふやになってしまいそうで―――…
互いの視線が重なる。伝わってくるのは、言葉を返さない俺の気持ちを汲みとっての、シンジのかすかな逡巡と動揺。
「変なこと頼んだな、やっぱり、さっきの言葉は取り消してくれ。シンジくんの呼びやすいように呼んでくれたらいい」
言っておきながら、赤面してしまいそうになる。シンジは思いのほか神妙な面持ちで黙りこんでしまう。
酒の勢いにまかせて口を滑らせてしまったことを後悔した。
―――名前がどうこうなんて、言いあってどうするっていうんだ?
話題を切り替えなければと、すぐさま180度違う方向へ話を進めた。
「…もう11時だ、ちっとばかし長居しちまった。そろそろ部屋に戻らなくちゃな」
酔いが回った勢いで柄にもないことを口にするもんじゃねぇな、と反省した矢先―――、
「りょ、…リョウジ、さん…」
「…!」
俺のシャツの袖をきゅっと掴みながら子鈴のような声でぽつりと呟くシンジの言葉に、否応なく心臓が鷲掴みにされる。
「まだ…帰らないで…」
―――おいおい、このタイミングで言うのかよ。可愛いったらないだろ!
しかも、帰らないで…って、なんなんだ!帰ると知った途端、しおらしく引き留めるなんて素か?素なのか…!?
「今日は、泊まってくれないんですか。あしたはお仕事ですか…?」
そうさ、仕事なんだよ…。これでもだいぶ我慢してるほうなんだが、俺なりに自重してる部分がかなりある。いい歳した大人だからな。煩悩を刺激されても、理性と戦ってんだ。
シンジくんだって男ならわかるだろ。
どんなに俺が元気でも、遅くまでここにいたとして、それでシンジくんにも気を遣わせるはめになる。
「残念だけど出勤なんだ…。悪い。明後日ならいいんだが」
「そう…ですか」
やばいな。からかうどころか、このままくっついてたら反応しそうだ…。
確実に離れたほうがいい。けれども、それはそれで名残惜しい気がする。
お年頃のシンジより30代のオッサンの俺のほうが性欲抑えるのに必死だなんて笑えてくるぞ。
「シンジくん、もっかい。もっかい名前呼んで」
ふたたび頼めば、シンジはちょっと困ったような表情で伏目がちになった。
「………リョウジさん…っ、」
顔をほのかに赤らめて綺麗な瞳を揺らがせ、
「失礼かなって思っててなかなか言えなかったんですけど、ほんとはずっとリョウジさんって呼んでみたかったんです…。だってぼくも、リョウジさんにシンジくん、って呼ばれるたびすごくうれしくて…。だけど、ぼくは加持さん、でしか呼べなくてもどかしかった……」
と、震え声で恥じ入りつつ確認してくるシンジ。
なんてこった…。時間なんて気にせずめちゃくちゃに愛してやりたい。抱きしめたい。見ていたい、きみだけを。
にも関わらず、一端の社会人としての立場と年下の恋人をもつ大人の男のプライド、そのふたつの理性が俺に待ったをかける。なりふりかまわずやれていたような学生時代はすでに遥か遠い過去。
かなしいことに、こういう場合、大人は融通が利かないもんだ。どんなに好きでも我慢と忍耐が必要。お互いのため。自分より相手を第一に優先、だ。大切に想うなら、なおさら。
シンジの愛らしさに駆り立てられそうになるものの。惚れた奴には嫌われたくない根性で俺は葛藤し、なんとかもちこたえたまま、謝罪の意をこめて―――シンジの目蓋に、軽くキスをした。
「…リョウジさん。ぼく、なにか…へんなことしましたか…?」
「変ってなにが」
「だって…その、さっきから当たってるんですっ。それ、もとに戻して…っ」
「………。あー…、しばらくは戻せねーな…。不可抗力だっての…」
(とっくに酔いは醒めてんだ!)
End.
2014.12.27
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